賽の河原で石積みをする子どもたち
ところで、以前の稿でもご紹介したが、日本では閻魔信仰は独特の進化をしてきている。閻魔大王と地蔵菩薩を同一視して、閻魔大王が地獄で罪人たちを裁く一方で、地蔵菩薩があの世の人々たちを救済するというものである。
地蔵菩薩がもっとも救済するのが幼くして亡くなった子どもたちだとされる。三途の川のほとりにある「賽の河原」は、親に先立って亡くなった子どもたちがいる場所と言われ、父母供養のために河原小石を100個積み切れば、あの世に旅立てるが、99個になった時、獄卒(鬼)が蹴飛ばし崩してしまう。これを表して「賽の河原」=「際限なく無駄なこと」を意味する慣用句となっている。この子らを救うのが地蔵菩薩と言われ、多くのお地蔵さまが市中に作られることとなっていく。
三途の川の渡り方で罪の重さがわかる
また、三途の川の対岸には、閻魔大王の前に引き出される前の罪の重さを測る懸衣翁(けんえおう)と奪衣婆(だつえば)という魔物が待っている。着ていた服を脱がせ、衣領樹(えりょうじゅ)に掛け、枝のしなり具合から服の重さを測り、三途の川をどのように渡ってきたか、つまりどのくらいの罪を背負っているのかがわかるのである。罪なきものは、裁判に引き出されることなく、また罪深きものは地獄行きへの裁判官の前へ引き出される。
日本人が持つ地獄の概念ができたのは
この裁判官の中心人物が、日本では閻魔大王となった。海外の他の仏教国でも地獄の様子にはさまざまな説があるが、われわれの知る地獄の概念は平安時代の日本のお坊さま(源信)が描いた世界観によるところが大きい。また、日本には歴史的に面白い人物がいて、小野篁(おのの・たかむら)という官僚は、昼は朝廷で夜は地獄で閻魔大王のそばで働いていたという。篁が地獄との行き来に使っていたという井戸が、京都の六道珍皇寺に今も伝わる。ちなみに小野篁は、源信よりも前に生きた人物なので、篁の通った地獄とわれわれが今イメージする地獄とはちょっと違うのかもしれない。