昭和天皇と秩父宮、高松宮、三笠宮、上皇さまと常陸宮さま、そして天皇陛下と秋篠宮さま──。男系男子が継承する天皇家の兄弟の立場の違いを、それにより生じた苦悩を考察する。AERA2022年3月14日号の記事から。
【写真】1954年5月、バイオリンの演奏会を訪れた当時の皇太子さま
* * *
『相模湾産後鰓類図譜』(生物学御研究所編)という本が1949年、岩波書店から出版された。昭和天皇が相模湾で採取した後鰓類(ウミウシ、アメフラシなど、読み:こうさいるい)を解説した本だ。
この出版の後日談が『昭和天皇拝謁記1』(岩波書店)に登場する。初代宮内庁長官・田島道治氏による天皇との詳細な面談メモにこうあるのだ。
<本の御礼が三笠宮様から直ぐ来た。三笠宮様は近来余程よく御成りになつた様に思ふ。(略)高松宮はおそく御礼が来た。(略)秩父さんは未だ何ともいつて来ないとの御話、一寸御返事に窮す。大きい御心で御寛容をと申すのみ>(49年9月19日)
名の挙がった3人は、昭和天皇の弟。上から秩父宮(昭和天皇の1歳下)、高松宮(同4歳下)、三笠宮(同14歳下)だ。年の離れた順に反応し、気やすい間柄ほど反応が鈍いと読むことも可能だが、そう単純でもないことは明らかだ。49年2月から始まるから、この日まで7カ月、何度となく弟たちへの不満が登場する。
昭和天皇は弟を「宮号+さん」で呼ぶ。「高松さんのことだがネー」といった調子で語りだし、「ネー」の後はほぼ不満。その理由は、田島氏の50年4月5日の記述から明らかだ。
<それから高松宮、秩父宮等のことにも言及され、皇弟たるの自覚足らぬとの仰せ(皇弟たるの自覚の内容が陛下と宮様方の間で違ふやうに思はるゝ)>
弟宮とも話をする立場の田島氏は、彼らに「皇弟の自覚」はあると認識している。が、兄の思う「自覚」とは違う。この指摘、皇弟とは何かという問題提起ではないかと思う。
二男と三男はひやめし
田島氏は昭和天皇と弟宮たちを見ながら、昭和天皇の長男(現在の上皇さま)と次男(義宮、現在の常陸宮さま)について考える。50年7月5日には、昭和天皇にこう語ったと記している。
<民法に家の観念も長子相続もなくなつたに係らず、皇室だけは長子相続で家のある様な建前で長男は所謂惣領であり、二男、三男はひやめしで余程違つた事となる故、此等の点余程注意しなければならぬと存じます>
ひやめし。天皇と田島氏の信頼関係あってこそのクールで率直な表現だ。翌日はこう記す。