『日本バッティングセンター考』(双葉社、2035円・税込み)を書いた作家・カルロス矢吹さんに話を聞いた。
* * *
胸の内のモヤモヤを白球にのせてフルスイングする人もいれば、フォームの調整に来る高校の野球部員もいる。街の片隅にあるバッティングセンターは、いつどんなふうに始まり、今どうなっているのか、作家のカルロス矢吹さんが各地を訪ねて解き明かした。
「バッティングセンターを作っているのはどんな人たちなんだろうと、ふと気になって、東日本大震災後に開業した、気仙沼のバッティングセンターのオーナーに取材したのが最初です。そこから歴史を調べ始めました」
ピッチングマシンの販売やバッティングセンターの施工を請け負う会社、オーナーらの話から、1960年代に誕生し、70年代にブームになり、90年代にイチローの登場でブームが再燃した歩みが見えてくる。
小学生のとき野球チームに入っていた矢吹さんは、バッティングセンターを見かけるとゲームセンター感覚でバットを握り、草野球を始めた30歳頃からは練習を兼ねて行くようになった。
「今までオーナーさんのことは考えていなかったけど、取材を進めるうちに、大変な思いをして維持、運営されていることがわかりました。どこも事情が違っていて、その人じゃないとできない話をしてくれました」
練習場とエンタメのどちらの要素を打ち出すか、レストランとの兼業、寒さで機械の部品が割れたところ、総工費3億円で新規開業したところなど、それぞれのオーナーにストーリーがある。
今まで訪ねたバッティングセンターの中から、ここはと思うところに取材を申し込んだが、実は半数近くに断られている。閉店の可能性がある、地域のお客さんだけでやっていけるから紹介されたくない、といった理由だった。
それでも北海道から沖縄、バンコクまでのオーナーの協力を得て、数年かけて話を聞き、写真を撮った。バンコクでは在住日本人のほか、「ドラえもん」に出てくる野球をやってみたいというタイ人の客が来ていた。