「上原氏は就職で本土に渡り、多くの矛盾を感じたのでしょう。私たちの世代の極限的な生き方をしたのではないかと強く感じています。彼は70年のコザ暴動の時にバーテンダーをしていて、暴動に加わって逮捕・起訴された10人のうちの1人です。コザ暴動はよく反米暴動というふうに言われますが、単純にはそう言い切れません」

 仲里氏が重視するのは、52年のサンフランシスコ講和条約発効による日本の主権回復と引き換えに、沖縄が米国の占領体制下に差し出された経緯だ。

「沖縄から見れば、日米は共犯関係にあるわけです。上原氏はなぜ国会を選んだのか。米国に従属しながら平和と高度経済成長を謳歌する日本への抗議でもあったのです」

『シランフーナー(知らんふり)の暴力』(未來社)などの著書がある、むぬかちゃー(物書き)の知念ウシ氏は「復帰」時は5歳。小学校の社会科の地図帳に沖縄は載っておらず、統計資料には「沖縄は除く」と書かれていた。副読本の『沖縄の歴史』が配られたが、郷土史の授業はなかった。

「授業中に読んでいたら、沖縄は日本に裏切られてばかりなのがわかりました。琉球政府の屋良朝苗主席が『基地のない島』などを国に求める建議書を持っていったけれど、羽田空港に着いた頃には米軍基地は残したままの返還協定が強行採決されたと書かれていてショックでした。行間から悔しさが滲み出る文章でしたし、こんな冷たい国なら復帰なんてやめたらいいのにって思ったものです」

 その後の沖縄は「本土に追いつき、追い越せ」の空気が支配的。「本土の大学に合格するのが勝者」という意識を植え付けられ、懸命に勉強した。

「志望の東京の大学に合格した時、『わたしもやっと普通の日本人になれた』と涙が出ました。でも、ヤマトゥンチューになって、ヤマトゥンチューに負けるな、頑張れ、頑張れと叱咤されてきたし、東京では東京の人の話し方を真似て複雑な気持ちでした。ありのままでは生きられないから」

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