「この二つの選挙をきっかけに、保革は真っ二つに割れ、沖縄人どうしが対立する状態が長く続いてきました。69年、米軍は核ミサイルメースB基地を撤去しましたが、沖縄が求めたのは基地負担を『本土並み』に縮小することでしたから。復帰は喜んで一緒にまとまるのではなくて、非常にギクシャクしていました」

 稲嶺氏は、ウチナンチューとは「沖縄人+沖縄県人÷2」だと定義する。「私たちの世代は琉球の時代を身近に感じてきました。けれども、この50年間で自分たちのアイデンティティーに対する意識が変わってしまった。いまの若い人たちは完全に日本人です。復帰50年に際して、沖縄県民世論調査で復帰して『よかったと思う』が94%を占めたのは、世代交代の影響があると考えています。沖縄では世代ごとに微妙な感覚の差があるのです」

■「沖縄が好きなら、基地を持って帰って」“支配者”日本に向けられる視線

 いつまで沖縄の人々に苦しみを押し付け続けるのか。その課題は未解決のまま、日本人に突き付けられている。

 沖縄在住の批評家・仲里効氏は「復帰」を東京で迎えた。大学を卒業して1年目の時だった。

「私の学生時代は、全共闘運動や新左翼運動が全国的に広がっていく政治の季節でした。沖縄では復帰運動が主流でしたが、私は本土に来て沖縄の独自性みたいなものに目覚めていきました。日本へ同化していく『復帰』に違和感を覚え、沖縄の自立を考えていく。東京の沖縄出身者たちが結成した沖縄青年委員会、沖縄青年同盟を結集軸にしながら運動していました」

「復帰」からちょうど1年後、衝撃的な事件が起きる。1973年5月20日、沖縄出身の26歳青年が運転するバイクが猛スピードで国会議事堂正門の鉄製門扉に激突、即死した。ブレーキ痕はなく警察は「自殺」と断定したが、遺書は見つからず、原因は不明とされた。青年の名は上原安隆氏で、川崎市でトラック運転手として働いていた。

 彼が育ったのは恩納村喜瀬武原(きせんばる)。米軍キャンプ・ハンセンの演習場があり、実弾射撃訓練による騒音、民間地への砲弾破片の落下などの被害が絶えなかった。仲里氏が語る。

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