と、お話がありました。01年の森喜朗首相とプーチン大統領の会談での「イルクーツク声明」をもとに交渉をはじめ、未来志向で柔軟にやっていこう、と。この森・プーチン会談には私も同席し、日本からは「歯舞、色丹の引き渡し」と「国後、択捉が日ロどちらに帰属するか」に分けて話し合う「同時並行協議」を提案しています。私は、
「総理と同じ考えです。外交には相手があります。日本が100点でロシアが0点ということもない、その逆もまたない。信頼関係が重要です」
と答えました。
対ロ外交は、橋本龍太郎、小渕恵三、森時代にぐっと進みました。ですが、小泉純一郎政権が誕生すると、また4島一括返還論に戻ってしまった。プーチン大統領は「日本は、人が代われば約束をほごにするのか」と驚いたことでしょう。小泉政権1年後以降、対ロ外交は「空白の10年間」となりました。
それが、2度目の安倍政権で、再び軌道に乗りました。
18年11月の「シンガポール合意」は、歯舞、色丹の2島返還と、国後、択捉への元島民の自由往来や共同経済活動を組み合わせたものです。これは日本としては「これしかない」という策であり、ロシア側も受け入れることができる内容でした。安倍元首相だから、そこまで持っていくことができたと思います。
――安倍元首相が対ロ外交に大きく注力された理由はなんでしょうか。
父である安倍晋太郎先生(元外務相)の背中をずっと見てこられたからこその思いからでしょう。
1991年4月、ゴルバチョフソ連大統領(当時)が来日。私は外務政務次官として、大統領を4日間アテンドしました。
当時、晋太郎先生は順天堂大学付属順天堂医院に入院されていて、余命いくばくもない状況でした。でも、同月18日、衆院議長公邸で開催された歓迎昼食会に出てこられました。
ずいぶんおやせになっていましたが、大統領のほうから歩いて近づいてこられると、車いすから立ち上がって、笑顔で握手をされました。その腰に手を回し、体を必死に支えていたのは、当時秘書だった安倍元首相でした。その光景が、今も目に浮かびます。