例えば、第一話の「色硝子と幽霊」では、経営不振に陥った料理屋・八仙花のおかみが、店に幽霊が出たと打ち明ける。八仙花はモダンな色硝子を取り入れることで、和と洋が入り交じった不思議な建物として評判になり、不振から脱出した。ところが幽霊が出るという噂で不振に逆戻り。江戸時代さながらの幽霊の怖さにまみれて、モダンさを失ってしまった。さて冬伯はどんな解決策をひねり出したのか。用意周到な作者は、このおかみの話に<よみうり>の情報を入れ、謎に一歩近づいたことを示唆している。痛快読物でもある。
以降、第二話「維新と息子」、第三話「明治と薬」、第四話「お宝と刀」、第五話「道と明日」と続くのだが、「色硝子と幽霊」と同様、タイトルを着想の発条とした興味津々の<明治キタン>が展開する。作者の特質を生かした趣向の数々に脱帽である。
読みどころの第二は、冬伯の人物造形の巧みさである。特に僧侶で相場師という二つの顔が、人と情報を引き寄せ、固有の空間と時間が生まれ、ここから物語が立ち上がってくる。うまい仕掛けである。もう二点、重要なことがある。冬伯を軽妙洒脱な人間味溢れた人柄として設定したところにある。暗く深刻な物語になるところを明るく洒落ていて爽やかな読後感にする源となっている。
残る一点は、「序」で濃密に描かれているのだが、冬伯と弟子・玄泉との遣り取りである。師が相場と深くかかわることを快く思っていない玄泉と、冬伯の会話が物語の進行役となっている。真面目で理屈っぽく心配性の玄泉の立ち位置が実に興味深い。
作者は、初エッセイ集『つくも神さん、お茶ください』の中で、<妖>のことを次のように書いている。<この力の入らないユーモラスな妖の一団を見ると、妖が人と共に、日々の暮らしの中にあったことを示しているようで、とても癒されます。> この文章を読んでふと思った。気配を消した<妖>は、まじめで理屈っぽく心配性の玄泉に姿を変えたのではないかと。 作者の成熟を窺わせる傑作である。