41年前の1980年。当時24歳だった谷津は、モスクワ五輪のアマレス日本代表に選出されながら、出場を果たすことはできなかった。東西冷戦の時代状況において、ソ連のアフガン侵攻を批判した米国は西側諸国に五輪ボイコットを呼びかけた。日本も、それに応じた。
この不参加により、178人の日本代表が涙をのんだ。なかでも谷津は、マラソンの瀬古利彦、柔道の山下泰裕、体操の具志堅幸司らと並び、実力的にメダル獲得が期待された、数少ない選手の一人だった。
谷津は日大レスリング部時代の76年、20歳のときモントリオール五輪(カナダ)にアマレス日本代表として出場し、8位入賞の実績を残している。その後、全日本選手権を5連覇するなど、モスクワ五輪前には「日本アマレスヘビー級史上最強の男」と呼ばれるまでになり、アスリートとしての絶頂期にあった。
「世界で善戦できる自信はあったよね。20歳と24歳では、やっぱり実力が全然違うから。あのときは出場できなかった悔しさもそうだけど、支援してくれる人たちに対して申し訳ないという気持ちが強かった。当時、足利工業大(現・足利大)の理事長が、俺にメダルを取らせるために武者修行のための海外遠征費を何百万円も出していてくれたんですよ。重量級は国内に強い練習相手がいなかったから」
■破格の扱いでデビュー
その恩義に応えなきゃ、という気持ちがあった。
「勝手にボイコットされて、それまで使った費用をどうしてくれるんだと。困ったよね」
幸い費用の返還を求められることはなかったが、モスクワ五輪出場が幻と消えたあと、谷津はアマレスに見切りをつけ、かねて勧誘を受けていた新日本プロレスへ入団する。
「これだけは言える。モスクワに出場していたら、俺のプロレス入りはなかった。大学に残ってアマレスを教えていたよ」
時代に翻弄されたアスリートの、人生最大の転機だった。
「玉石混交という言葉があるけれども、当時の谷津は、玉のなかの玉だったでしょ」
そう回想するのは、谷津をスカウトした元新日本プロレス専務の新間寿さん(86)だ。