毎年11月の駒場祭で開催される、ミス&ミスター東大コンテスト(東京大学広告研究会主催)。今年も7月にファイナリストの男女各5名が発表された。1997年に始まり、長らく駒場祭を盛り上げてきたコンテストだが、昨年は学生の有志団体「ミスコン&ミスターコンを考える会」が、ビラを配りコンテストへの反対を呼び掛ける動きもあった。
ジェンダーに関する社会課題が国内外で注目され、他大学や海外でも「ミスコン」を見直す動きがある中、今後ミス・ミスターコンはどうあるべきなのか。哲学と歴史社会学、それぞれを専門とする2人の東大教授に話を聞いた。(東大新聞オンラインより転載、一部改変)
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■学内の催しとしてふさわしいか
哲学者であり、身近な問題について考える「哲学対話」の活動も展開する梶谷真司教授(総合文化研究科)によると今回の議論のポイントは、ミスコンがキャンパス内で駒場祭実行委員会と大学当局の認可の下で行われる催しとしてふさわしいか否かだ。男性が女性の容姿や振る舞いを評価するイベントは今でも国内外で行われているが、大々的な実施ははばかられるようになっている。こうしたイベントが絶対に悪いとまでは言えないが、特に目新しさもないのにあえて東大で行う意味はあるのか。「やりたければ、学外で会場を借りてやればいい」
今回問いただすべきは広告研究会ではなく、駒場祭という場で行うことを許可している駒場祭実行委員会、ならびに反対を示さない大学当局だと、梶谷教授は考える。何かを行う権利とそれを制限する規則は原則民主的に決められるが、問題によっては民主的に決めるとマイノリティが不利になるものもある。コンテストについても「学生の自主性に任せても何も変わらないとき、駒場祭実行委員会や大学当局が口を出さないのは現状を認めていることと同じです」。
ミスコンを支持する東大生には「世間が作った価値に便乗せず、一歩引いて東大生としての見識を持って考えてほしい」と一言。「良くも悪くもエリートである」東大生の役目は、多くの人が持つ価値観だからという理由で自分たちを正当化するのではなく、そのような価値観が生まれた背景を考えることだ。「東大はネームバリューがある。それに乗っかって何かをやるときには責任が生まれることを、自覚すべきです」