いっぽう、目黒蒲田電鉄(後年東京横浜電鉄を経て東京急行電鉄→現東急電鉄)が敷設した大井町線が、大岡山を経て二子玉川に路線を延伸したのが1930年で、路面電車ではない高速電車もこの地に走り始めた。この結果、二子玉川は大井町線と玉川・砧・溝ノ口線が接続するジャンクションに発展していった。
次のカットは二子玉川園の4番線で発車を待つ渋谷行きの玉電。写真のデハ150型は半年前の1964年5月に就役した新造車両で、直線をコンセプトにした近代的な路面電車だった。画面右奥には大井町線二子玉川園駅の留置線があり、ステンレスカーの嚆矢となったデハ5200系とデハ6000系が並んで留置されていた。大井町線開業当初はこの留置線の位置に二子玉川駅の乗降ホームがあった。
■地方鉄道法で運営されていた砧線
二子玉川園と砧本村を結ぶ砧線は玉川線と同軌間で敷設されたが、軌道法で運営されていた玉川線と異なり、地方鉄道法で運営されていた。このため、渋谷方面から玉川線で二子玉川園に到着し、砧線に乗り継ぐ場合は新たな初乗り運賃を必要とした。砧線と同じ地方鉄道法で運営されている大井町線とは発駅からの運賃が適用され、同一乗車券で乗り継ぐことができた。(地方鉄道法は国鉄が民営化された1987年からは鉄道事業法に改正された)
次のカットは、二子玉川駅4番線から発車して砧本村に向かう砧線の電車。砧線には鉄道線と軌道線の双方を走ることができるデハ60型が専用で使われていた。右側には二子玉川園に到着する玉川線の電車がタイミングよく写っている。画面左側に見える工事中の側線は砧線の川砂利輸送当時、砂利を積んだ無蓋車を玉川線方面に反転するための機回し線の残滓だった。
次は砧線の終点である砧本村風景だ。砧線は全長約2200mの盲腸線で、全線単線だった。途中に中耕地、吉沢の二駅があり、戦前は吉沢~砧に伊勢宮河原(いせみやがわら)と大蔵の二駅もあったが、いずれも大戦中に廃止されている。
写真は砧本村で折返しを待つ二子玉川園行きのデハ60型。砧駅開業当初は川砂利輸送の進展を見込んで広い敷地が用意され、左側の人物が写っている先まで駅の敷地だった。背景のクラシックな社屋は「わかもと製薬」の工場で、訪問日が「文化の日」の祝日だったため、日章旗を掲揚していた。この工場は神奈川県の相模大井工場に移転し、跡地は駒沢大学玉川キャンパスになっている。