ナウマンは1880年、一時帰独した際に大森、鶴見で発掘した土器を持参してウィーンの世界博物館に収めた。化石などは母校ミュンヘン大学に収めたから、土器はハインリヒのことを考えたのだろう。ウィーンの世界博物館にはハインリヒの集めた日本の文物が大量に収められている。ハインリヒはオーストリア=ハンガリー帝国公使館で通訳として働き、最終的にはオーストリアの国籍を得、オーストリアに帰ったからだ。

■業績半ばで帰国を余儀なくされたライマン

ライマンと弟子たち(桑田権平『来曼先生小伝』桑田権平、1937年刊より)
ライマンと弟子たち(桑田権平『来曼先生小伝』桑田権平、1937年刊より)

 ナウマンはアメリカ出身の地質学者ライマンとも競わなければならなかった。ライマンはナウマンに先立つこと2年、1873年に開拓使の要請で来日し、主に北海道の地質調査を行った。質の良い炭鉱を発見したのはライマンの功績の一つだ。北海道で熱血教師ぶりは有名で、弟子に慕われた。1876年に北海道の地質図を完成させる。ライマンはそのあと、日本に地質調査所を創設して、積極的に全国の地質調査をしなければならないと思っていたが、日本で新聞にその業績を非難する投書が載ったり、所属部署の変更など諸事情が重なり、失意のうちに1880年、帰米した。

 ナウマンもライマン同様、地質調査所の必要性を感じていた。日本政府の地質調査所創設計画に加わった。縄文土器をウィーンに収めたあと、1880年6月に再来日すると、肩書は技師長だが、実質は地質調査所所長として日本の地質調査に励んだ。北海道の地質図をライマンが完成させていることは重々、ナウマンの念頭にあっただろう。北海道を除く日本地質図を完成させて、ベルリンで開催された万国地質学会議で発表し称賛されたのが明治18年だから、ライマンの北海道地質図の10年近く後だ。

■日本で友情をはぐくんだミルンとナウマン

 ただ、お雇い外国人たちは競争しているばかりでもない。ナウマンは英国出身の地震学者ジョン・ミルンと親交を結んでいた。1877年の伊豆大島火山の噴火を一緒に見に行った。学際関連だけでない。ナウマンの妻をめぐる醜聞や決闘事件が新聞に載った時、援助の手を差し伸べたのはミルンだった。ナウマンの子孫が持っていた写真を見ると、滞日20年に及んだミルンが夫人トネを連れて帰国した時、ナウマンは妹を連れて訪ねていることがわかる。日本で育まれた友情は晩年まで続いたようだ。