また、慶応元年(1865)の西本願寺新屯所移転後、新選組は師範制度を確立、撃剣のみならず、柔術、槍術、馬術など、さまざまな武術のキャリア隊士による指導システムを確立した。つねに多岐武術の推奨を重んじていたのである。
ところで改めて8名の撃剣稽古出場者を見ると、局長ゆかりの天然理心流を専門に習得していた者は半数に満たない。
晴れの御前稽古には、さまざまな流派の会得者が立ち合っていた。
槍術に関してのものだが、幕末期、京都所司代の要員として治安活動に従事していた、桑名藩士の加太邦憲(かぶとくにのり)が、後年、このような回想を残している。
予は月々一両回、槍及び道具を掲げて、下した立たち売うり通りの会津邸の演武場に臨みたり。当時、会(津)桑(名)の演武場にて行なわれたる槍術は(中略)突刀と均しく、旧式に拘こう泥でいせず、諸流派の長所を採りたるものなれば、まったく進歩的のものなりき。
(『加太邦憲自歴譜』)
京都の治安を担う者たちは、一つの流派にとらわれることなく、諸流派から利点を選び、武技を磨いたのである。剣術にもこうした配慮がなされたことだろう。
新選組は初期の壬生屯所時代から、屯所内に撃剣の道場を兼備していた。首脳部が信奉する天然理心流は指導の中核をなしていたであろうが、加えて、永倉新八からは神道無念流や、吉村貫一郎からは北辰一刀流の利点が教授されていったなら、新選組の剣に破格の威力と最強神話を加えることになったに違いない。
記録に残る6名の新選組撃剣師範就任者を見ても、天然理心流の会得者は、沖田総司と斎藤一の二人のみである。
新選組の本旨は、あくまで相手の捕縛だった。池田屋への突入時に近藤勇が「御用御改め、手向かいいたすと容赦なく切捨つる」(『浪士文久報国記事』)と、真っ先に伝えたように、抵抗されて捕縛が難しくなったとき、彼らは抜刀した。
制服に舞台衣装のデザインを引用するほど、新選組が崇敬した元禄の赤穂浪士は、吉良邸討入りに際し、相手に複数で対峙することを最大の戦略としていた。
同時代資料のマニュアルは残されていないが、最強の治安組織として、捕縛に向けた新選組の戦術には、尊敬する赤穂の先人の戦略も見据え、時宜や事態に応じた多彩なものがあったことだろう。
(文/伊東成郎)
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より