週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅びゆく幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とはいかなるものだったのか。前回の記事「『組織の拡大』に見る、新選組の実力とは?」に続き、百戦錬磨の志士も恐れた剣技を解き明かす!

【イラストで解説!近藤・土方の「必勝法」はこちら】

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■「技のデパート」的な力をもつ 治安組織を目指していた新選組

 新選組局長近藤勇と副長土方歳三、さらに幹部の沖田総司が会得していた剣術は天然理心流(てんねんりしんりゅう)だった。

 遠江(とおとうみ)出身の近藤内蔵之助(?~1807)が案出した、剣・柔・棒・気合など多岐にわたる武術だったが、中でも実戦に即した剣術は突出して習得され、広く多摩地方一帯に門人を生んでいった。

 近藤勇はその五代目宗家として、江戸市谷の撃剣道場の試衛館で、沖田総司はじめ多数の門人を指南、やがて道場の中心人物らと上洛し、新選組を立ち上げた。

 組織草創期の文久三年(1863)四月十六日、新選組の総員は組織を指揮下に置く京都守護職の会津藩主・松平容保に招かれ、洛東黒谷にある本陣で、有志による武術の御前稽古を披露した。

 当日の組み合わせが記録に残されている。(●は天然理心流習得者)

●土方歳三×藤堂平助 
永倉新八×●斎藤一
平山五郎×佐伯又三郎
山南敬助×●沖田総司
(棒術披露)川島勝司
(柔術)佐々木愛次郎×佐々木蔵之助

 最高首脳の前で初披露する武術に、失敗は許されない。確かな技量の者が選ばれたことは、顔ぶれからも推察できる。さらに注目されるのは、剣術以外の武術も上覧されたことだった。

 翌年一月のことだが、二度目の上洛を行なった徳川家茂の入京行列に新選組も加わっている。きらびやかな行進の中、彼らのみは武装姿で、弓や槍など、各々が得意とする武具を携えていたことが、目撃者の記録に残っている。
 
 新選組の上層部は、多岐武術の習得者を網羅した、いわば技のデパート的な集団として、強力な治安組織を構成することを初期から目論んでいたようだ。全史を通じ、会得流派に関する資料が残る隊士たちを見ると、実にさまざまな武術と流派が伝えられている(表参照)。
 

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師範制度を確立し、多芸武術を推奨