これに対し宇沢は、マルクスの経済分析を取り入れ、生産財を資本財と消費財に分けた「宇沢二部門成長モデル」を発表。その結論は「ナイフの刃の上を歩む」ような資本主義の不安定さだった。

 1964年、宇沢はシカゴ大学に移籍した。シカゴ大学は、ミルトン・フリードマンが率いる市場原理主義者の牙城だった。宇沢は彼に果敢に論戦を挑んだ。二部門モデルで有名になった宇沢の下には、スティグリッツやアカロフなど後年ノーベル経済学賞を受賞する俊英が集まり、新たな学派を形成した。だが、時流が味方しなかった。ベトナム戦争は年々激しくなり、かつての研究仲間の多くが戦争に加担していると知った宇沢は帰国を決意。68年のことだ。

 日本に戻った宇沢は、近代経済学そのものに批判の目を向けた。

 水俣の公害問題や成田の空港問題など、現場を歩いてさまざまな社会問題と取り組み、それらを経済学で包摂するために「社会的共通資本」の概念を確立する。

 宇沢は、基本的人権と密接な関係にある大気、森林、水、道路、上下水道、教育、医療などを「社会的共通資本」と定め、市場原理に委ねてはならないと主張。自然を搾取し人間を利潤競争に追い立てる市場原理主義から脱皮し、経済学を本来の「人間の学」として再興させることをめざした。

 冒頭に引いた炭素税と大気安定化国際基金の提言は、「社会的共通資本」大気編の一例と言える。ただし宇沢は晩年病に倒れ、8年前に86歳で死亡したため、未解明の部分が残された。

 世界をこの40年牽引してきた市場原理主義(新自由主義)の機能不全が明白になった現在、経済学の「隠れた巨人」宇沢弘文の仕事はますます再評価されるだろう。

週刊朝日  2022年12月23日号