三つ目の15年は、半導体開発をめぐる方針の違いからビル・ゲイツと袂を分かち、日本に帰国してアスキーの社長に就任した時代だ。株式公開の喜び、バブルの熱狂、そしてリストラの苦しみなど、良くも悪くも会社経営のすべてを体験した時代だ。結果的にアスキーをCSKに売り、私自身もアスキーを去る。それが2002年のことだ。

 四つ目の15年は、教育者、研究者の時代だ。アスキーの仕事から身を退く前から大学で講師をしたり、1999年には博士号を取得したりするなど、研究に目が向き始めていた。アスキーのすべての役職を退いて以降は、マサチューセッツ工科大学(MIT)の客員教授に就任したのを皮切りに、祖母が創立した須磨学園(神戸)の学園長と、尚美学園大学の教授を兼務する生活が続いてた。

 2017年には、東京大学工学系研究科の「IoTメディアラボラトリーディレクター」に就任。学部生や院生に「設計工学」や「産業総論」を共同で教える一方、インターネットを軸としたクラウドとIoT、つまり「ポストスマホ」時代のIT技術を研究している。具体的には、16Kカメラやディスプレイ、次世代の光ディスク、次世代FM音源チップの開発などだ。

 と、これまでの人生を振り返ったところで、まず語っておかなければならないのが「Windowsの蹉跌」についてだろう。

●スマホにフルスペックWindowsなら競争の風景は変わっていた

 東大でこうしたテーマに取り組んでいる背景には、ITのパラダイムシフトの中で、マイクロソフトもビルも、そして私自身も「負けた」という意識があるからだ。

 マイクロソフトはWindowsに磨きをかけていく過程で、必然的にCPUやメモリーといったハードウエアの問題に直面した。簡単に言えば、自らが作ったOSを動かすためのハードを自ら用意すべきなのか、それとも他社に委ねるのかという問題だ。

 当時、私はマイクロソフトで、OSの受け皿となるパソコンの開発を担っていたから、必然的に自社開発を主張したのだが、ビル・ゲイツは最終的にハードウエアは他社に委ねることにし、ソフト開発に特化することにした。この戦略によりマイクロソフトは、半導体の景気サイクルに巻き込まれることもなく、ソフト開発で莫大な収益を獲得していく。

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マイクロソフトの戦略ミスを誘引したのはインテル