董さんは、ふんふんと聞き流して言う。
「本とゴーストは似てるって、ぼくはずっと思ってるからね。ぼくらはいずれ死ぬけれども、うまくいけば、ぼくらの本は残る。本の背表紙って、なんだか墓石みたいだと思わない? 本棚は墓地みたいだ。香港の墓地は山の石段に整然と並んでるから、本棚そっくりだよ」
たしかに、本は過去に生きていた人たちの思いを蘇らせる点で、幽霊と共通点がある。書くことで蘇らせ、読むことで、何度も何度も蘇らせる。
連作『ゴースト』は、現代に蘇る、あるいは現代人の横にたしかに存在する過去を、書いてみようという試みだったのだが、わたしがいつものように頼りにしたのは、本棚に並んでいた先行作品たちだ。
GHQに接収された瀟洒な和洋折衷住宅の話である、「原宿の家」という作品を書いたときに頭にあったのは、読む人が読めばわかると思うけれども、安岡章太郎の「ガラスの靴」だ。占領期を舞台にした傑作で、この作品へのオマージュのつもりで書いた。「きららの紙飛行機」は、児童文学作家佐野美津男の『浮浪児の栄光』(小峰書店)からインスピレーションを受けた。「亡霊たち」には、大岡昇平の戦争小説がいくつも出てくる。
七編のゴースト・ストーリーは、必ずしも幽霊が出てくる話ばかりではないし、「ミシンの履歴」のように主人公が人間ではなくて機械だというものもある。「キャンプ」は、どこが舞台とも、いつが舞台とも、言いかねる設定で、わたしの作品の中ではめずらしくSFに近い書き方をしている。「廃墟」は随筆的な小説と言えそうだし、最後の一編「ゴーストライター」は、戯曲に近いスタイルになったかもしれない。
短編集を編むとき、しかもそれが登場人物や設定を同じにした長編小説に近い連作ではない場合には、できるだけいろんなテイストの作品を入れてみようと思ったりする。短編集はクッキーの缶詰みたいなものだから、開けたときに、いろんな味や形状や色合いが入り混じっているほうが、愉しいのではないかと思うのだ。
ゴーストたちはそれぞれ72年前の8月に終結した戦争を背景にしている。でも、考えてみたかったのは、戦争というよりも現在、あるいは戦後、についてだった。
それは、ここ数年の空気が、過去の戦争とその後の来し方、そしてその先の未来について、どうしても考えさせるものであることと、もちろん無縁ではなかった。