出雲大社で挙式する沢田研二と俳優の田中裕子=1989年11月12日 島根県大社町 出雲大社
出雲大社で挙式する沢田研二と俳優の田中裕子=1989年11月12日 島根県大社町 出雲大社

しかし、奮戦むなしく

  吉田によるプロデュースが開始した直後の89年11月12日、沢田研二はかねてから交際していた田中裕子と結婚。前年は選からもれてしまっていたNHK紅白歌合戦にもソロとザ・タイガースでダブル出場を果たし、前夫人との離婚以来、数年間引きずってしまっていた負のイメージからようやく解き放たれた。

  90年代に入ってからも沢田研二は「単純な永遠」(90年6月)「Beautiful World」(92年6月)、「REALLY LOVE YA!!」(93年11月)といった聴きごたえのあるアルバムを毎年リリース。

  一時ふっくらしかけていた体型も絞って、ライブでは吉田(ベース)、柴山和彦(ギター)、村上“ポンタ”秀一(ドラム)らによるバックバンド「JAZZ MASTER」を率いて若手ロックバンドにも負けないパワフルなステージングを繰り広げた。

  しかし、皮肉なことに年を追うごとに楽曲のセールスは落ち込んでいった。

   吉田によるプロデュースで沢田研二はイメージの再構築には半ば成功したのだが、その次の目標であるシングルヒットを生み出すことが出来なかったのだ。

   厳しい言い方をすればアルバム収録曲としては数々の佳曲があるのだが、シングルは往年の水準に届かなかった。この時期、沢田研二同様に長年低迷していた郷ひろみが「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」(93年1月)、「言えないよ」(94年5月)のヒットで返り咲いたのとは対照的だったと言えるだろう。

   CO-CóLO期に続き、数字の面では厳しい結果に終わった吉田建プロデュース期。ただ一つつかんだ"ロックの大御所"としてのイメージを糧に沢田が再ブレイクを果たすのはまだまだ先のことだった。(本文中敬称略)

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