
1960年代後半から80年代にかけ数々のヒット曲を放ち、音楽界、芸能界の頂点に立った沢田研二。「君だけに愛を」(68年/ザ・タイガース)、71年にソロデビューしたあとは「危険なふたり」(73年)、「時の過ぎゆくままに」(75年)、「勝手にしやがれ」(77年)、「TOKIO」(80年)……彼の楽曲は、セールス記録はもちろん、印象的なパフォーマンスと演出、一本筋を通した生きざまで、多くの人の記憶にも残っている。
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日本の芸能史上、沢田研二とはいったいどんな存在だったのだろうか、そして、社会に何をもたらしたのだろうか。昭和を代表するスターの軌跡を綴った短期集中連載の第6回。
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吉田建をプロデューサーに目指したのは
長い低迷期となったCO-CóLOの解散(88年7月)後、沢田研二は新たなバンド「Krís Kríngl」を結成。
引き続きAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)を意識したような歌謡曲テイストの楽曲を発表したが、すぐに限界を感じたのかEXOTICS(エキゾティクス)のバンドリーダーだった吉田建をプロデューサーに招き体制の刷新をはかった。
84年に沢田研二のもとを離れた後、ロックシーンの若き担い手である山下久美子や氷室京介のプロデュースを担当し、成功をおさめていた吉田。彼によるプロデュースの第1弾としてリリースされたのはシングル「ポラロイドGIRL」(89年9月)。EXOTICS期のようにポップでロックな音楽性への回帰を打ち出した楽曲だった。
作曲を担当したのは当時大ブレイクしていたプリンセス プリンセスの奥居香。意外性のあるキャスティングだったが、続く翌月リリースのアルバム「彼は眠れない」でも吉田はチェッカーズの鶴久政治や徳永英明などの若手から忌野清志郎、松任谷由実などすでにレジェンド化していたベテランまで多彩かつ豪華な作家、アーティストを起用。沢田研二と共に積極的にメディア露出して"華やかなジュリーの復活"を喧伝した。
89年はラジオ局「J-WAVE」が旧態の歌謡曲とは一線を画す「J-POP」を提唱し始めた年。
これはあくまで筆者の想像だが、吉田はこのムーブメントの精神的象徴、いわば"J-POPの天皇"とでも言うべき地位に沢田研二を据えようとしたのではないだろうか。
時代のトレンドに沿ったイメージで、やみくもに売れ線を狙うと言うよりはクオリティの高い楽曲を作ることで沢田研二のブランドイメージの再構築を図ろうとしたのでは……この時期の楽曲を聴くたびにそう思うのだ。