
多くの日本史の教科書では、「室町」と「戦国」をつなぐ転換点に関する記述が少なくなりがちだ。
応仁の乱から信長上洛までの「空白の100年」を理解するうえでのキーパーソンが、細川政元である。彼は足利将軍追放のクーデターを起こし、延暦寺を焼き討ちするなど常識破りの行動で、織田信長のロールモデルになったといえる人物といえる。
長年細川氏の研究をしている武庫川女子大学の古野貢教授は、著書「オカルト武将・細川政元」の中で、「応仁の乱の東西両陣営の血を引く政元は、戦いを終わらせる象徴的存在として期待されていた」と指摘する。
新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。
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政元の生まれた翌年がすなわち応仁元年であり、この年に応仁の乱が始まります。政元の父の細川勝元と、母の養父に当たる山名宗全が東西に分かれて戦うわけです。
応仁の乱というと、そもそも細川と山名という当時の室町幕府の巨大な勢力があらかじめ対立していたと構図で理解されやすいのですが、ここには誤解があります。戦いが始まる少し前は、細川氏と山名氏は協調関係にありました。そうでなければ勝元と山名熙貴の娘の婚姻関係そのものが成立せず、政元が生まれることはありません。
つまり聡明丸の誕生は、細川・山名両氏の協調関係を体現したものとして当時は評価されたものの、幕府内の力関係や人間関係・利害関係のなかで両者が対立し、戦乱に入っていくのです。
十一年にわたる応仁の乱が始まって六年後の一四七三年(文明五)の三月に宗全が、続いて五月に勝元が死去します。応仁の乱の東西両陣営の主将がほぼ同時に亡くなってしまい、戦い続ける意義が失われてしまいました。ところが内乱は終わらず、継続していきます。
その中で政元はどうなったのでしょうか。当時七歳といわれており、この時に家督を父親から継承しています。細川氏と山名氏双方の血脈を引いている彼が細川京兆家の当主になったことから、両家を統合して戦いを終わらせる象徴的存在になるのだと期待され、和平の機運も高まったといわれています。
実際、政元が家督を継いだ翌年の一四七四年(文明六)四月には、山名宗全の後を継いだ山名政豊との間に和睦が成立します。ところが、内乱全体は終わらず、なお継続していきます。
このような動きにどのくらい政元が関与したのかといえば、できることはほとんどなかったはずです。十歳にもなっていない少年ですから、いくら「賢かった」「聡明だった」と言われても、具体的な政治・軍事への関与や決断ができるとは思えません。この時期に政元を支える集団のようなものが成立してきて、彼らが対応することになります。
政元からすれば大叔父のような立場の細川政国や、細川氏が守護を務める「分国」と呼ばれる国からピックアップをした国人といわれる人々によって編成された「内衆」らが、まだ幼い政元を支える体制を作り、状況に対応していきました。
ですから、戦争が終結しないまま事態が進んだのも、名目上トップである政元の意思ではなく、内衆たちの利害関係などによるものではないかと考えられます。この内衆と呼ばれる集団指導体制的なものは、意外に長く残り続けることになります。
幼い政元を支えるために作られた組織ですから、当の政元が成長してしまうとその意義が薄れ、ある程度解消していくはずです。しかし、彼らはその後も残り、細川氏の有力な家臣として活動し続けました。
一四七七年(文明九)になり、将軍義政が戦争を終わらせることを決断し、応仁の乱は終わりました。とはいえ、この戦いはそもそも義政が自分の後継者についてきちんと対応していれば起きる可能性は低かったのです。彼が弟の義視を後継者に立てたにもかかわらず、実子の義尚誕生後にきちんと整理しなかったので、後継者争いが起きてしまったわけです。
ここから、将軍という当時の政界トップのリーダーシップの不調が明らかになってしまいます。また、本来在京する守護が応仁の乱によって自らの分国に帰国したことから、中央政府である幕府に一番近いところに自分の足場(=分国)を持っていた細川氏がその後の幕政をリードしていくことは必然であり、すでに紹介したとおりです。
『オカルト武将・細川政元』では、細川政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉など、応仁の乱から信長上洛までの「激動の100年」を詳述しています。
