メッキの研究に集中し、独りで父の会社が必要な装置も開発した。先生の話が続く。

「覚えています。メッキ分野は指導できる教員がいなかったので、自分1人でやっていた。家業の課題を研究テーマにして、それを発展させたのが修士課程で、もう独り立ちしていた」

『源流』の水源が、溜まっていく時期だった。

 修了が近づくと、バブル経済の売り手市場で、就職案内が何百社もきた。そんななか、テレビで富士通の社員が仕事をしながら課長昇格の試験を受ける番組を観て「厳しそうだが、面白そうだ」と思う。しかも、募集がきた半導体の開発拠点は川崎市にあり、一度はいきたかった東京に近い。就職先に決めた。

 富士通は、母の「お父さんの体調が悪いので福井へ帰ってきて」という電話で、2年9カ月で退社。92年1月に清川メッキ工業へ入社した。最新の電子部品のメッキ装置が入ったときで、技術開発を担当する。

 そのころ、高島先生に勧められ、新設の博士課程へ入った。2年目から博士論文の準備を始め、このとき、先生に「オリジナリティーをつくらなければいけないよ」と言われる。

オリジナリティーに難しい注文も断らず新装置をつくった父

 父は、どんなに難しい注文でも「できない」と言わない。難題を実現するために、自ら新しいメッキ装置をつくった。「オリジナリティー」に重なる。その「社長魂」は、職住一体の創業の地に生きている。

 清川メッキは80年代に入るまで、2輪車の車輪を支えるリムのメッキ加工が稼ぎ頭だった。だが、新しい技術が出て需要が減ることはみえていた。父は雑誌で電子部品のメッキ加工の記事を読み、「ぜひ進出したい」と思っていたら、大手電機メーカーから電子基板に使う抵抗体にメッキする依頼がきた。

 大きさは数ミリで、リムよりも微細なメッキ技術が必要だ。でも、父は「できない」と言うのが嫌いで、「やる」と即答する。電機メーカーは父と話していて「これは知らないな」と見破ったらしいが、他に「やる」という会社がないので、組んで始めた。父は試作を重ねて、80年代後半に軌道へ乗せる。

 父が、福井市和田中で清川メッキ工業所(現・清川メッキ工業)を設立したのは63年、清川さんが生まれる前年だ。『源流Again』で、創業の地も訪れた。残っている建物に「1st Factory」とあった。1階は事務所、2階は住宅、後ろが工場で、その先は田んぼだった。母・トヨ子さん(83)と弟2人の5人家族だ。

土日も働いた父母家族同様の社員と花見や海水浴へ

 小学校3年生までいた旧家の前に立つと、口調が弾む。

「父母は土日もなく働き、正月くらいしか休みませんでした。社員は家族同様で、昼食も夕食も一緒に食べたし、みんなで花見や海水浴へいきましたね」

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『源流』に合流してくる日