停戦の初日、ナセル病院に届いた支援物資=2023年11月24日(写真 国境なき医師団提供)
停戦の初日、ナセル病院に届いた支援物資=2023年11月24日(写真 国境なき医師団提供)

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《11月27日の日記から》

 昨日は風邪がひどくて超早めに寝た。寝袋二重にして寝たけど結構暖かかった。

 今日はER(救急救命室)が思ったより混んでる……と思ったらadmission hold(入院待機)の患者さんばかり。昨夜北部からたくさん転院で来たらしい。でもどこにも行くとこなくて蘇生室までベッド待ちの患者さんが……敗血症、血胸、大腿骨骨折、心不全……などadmission holdの患者さんばっかりだった。ドクターがあまり来なかった。

 でも頑張ってERに居座ってみた。もう新しい患者さんを診るところがない。

 病院の横っちょでテントを作り始めてた。どうやって(病院の)スペースとベッドを増やすか。

 足が痛かったおじさんを放射線科に連れていって放射線技師数人でエコーして、血流ないということで別の病院に転送になった。

 なんかユーウツだ。今日は水も出ないし。

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 この頃は冬に向けてだんだんと寒くなってきており、栄養状態も悪かったし、気持ちも落ち込んでいたので身も心も調子を崩していた。そんなときに元気をくれたのは現地の子どもたちだった。

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《11月28日の日記から》

 昨夜も鼻づまりつらかった。水出ないしつらい。

 朝とぼとぼオフィスに行こうとしたら子どもたちに見つかってかこまれてハグされて、たき火のところに連れていかれた。元気なかったのがすごい元気出た。

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 私たちが寝泊まりしている建物の向かい、病院に行く毎朝の集合場所の前の家に複数の大家族が避難していた。その横にちょっとした空き地があってそこで大家族は毎朝焚き火をして暖をとっていた。おじいさん、おばあさん、親御さんたちとたくさんの子どもたち。ガザ地区の学校は全部避難所と化していたので子どもたちは学校に行けずに暇を持て余しておりいつもその空き地で遊んでいた。攻撃が始まってやってきた多国籍のMSF チームは子どもたちにとって大きな関心だった。もともとそこの大家族、子どもたちの輪に引き込んでくれたのはMSFの50代のフランス人男性の整形外科医。他のチームメイトは通り過ぎて、手を振ったりはするけど空き地の中までは入っていったりはしなかった。MSF チームで毎日向かいの空き地の中に行って交流できていたのはその整形外科医と私だけだった。

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