イラストレーターで稀代の風刺画家であった山藤章二さんが9月30日、老衰で亡くなった。87歳だった。葬儀は未定。週刊朝日で「ブラック・アングル」を45年、「似顔絵塾」を40年にわたって連載した(いずれも2021年終了)。「ブラック・アングル」などで様々な作風を駆使した風刺画やパロディー画を発表し、「現代の戯れ絵師」を自称していた。
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遺族によると、最近は次のように過ごしていたという。
「ブラック・アングルの連載を終えた後は、締め切りのない日々を穏やかに過ごしていました。昨年の阪神優勝も大変喜んでいました。最愛の妻と、毎日一緒にテレビを見て、茶飲み話をし、時々手を繋ぎ、本当に仲の良い夫婦でした。昨年末、妻に先立たれてから急に元気がなくなったように感じています」
週刊朝日の「奥座敷」で生まれたブラック・アングル
山藤章二さんが「週刊朝日」で「ブラック・アングル」の連載を始めたのは1976年。その前は週刊朝日の表紙を2年担当していたが、それほど評判は芳しくなかった。
「表玄関の表紙に山藤さんの“毒とエスプリ”はキツすぎるが、他誌に盗られるのは悔しい。奥座敷の最終ページを差し上げます。毒でもエスプリでも十分に発揮してくださいよ」
と、当時の編集長が口説き、「ブラック・アングル」が誕生する。
ちょうど田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕された年だった。武者小路実篤さんの死去とロッキード事件の角栄・児玉・小佐野各氏の“金友関係”を組み合わせた「仲よき事は美しき哉」(76年4月30日号)は大きな話題となった。山藤さんは田中元首相について、『自分史ときどき昭和史』(岩波書店)に書いている。
〈スタートしたばかりの漫画の絵柄としては、とりあえず〝角さんだのみ〟だった(略)政治家個人にこれほど大衆の関心が集まったことはない(略)「ブラック・アングル」のスタートは、時の利とヒトの利を得ていた〉
政治家の顔が個性的な時代だった。