バスケ三昧の学生時代

 1954年1月、神戸市灘区灘南通5丁目で生まれる。父は工場勤め、母は専業主婦で、男ばかり5人兄弟の末っ子。兄たちにはいじめられもしたが、概ね自由に育つ。自宅からみえる六甲山系の摩耶山へ、よく野球仲間と登った。何かで母に叱られると、緩い坂道を一人で下って神戸港へ行き、ぶらぶらして気を晴らす。いまも心象風景に残る三つは、摩耶山と神戸港、そして水道筋商店街だ。

 自宅から歩いていけた水道筋商店街は、全長が約450メートルの長さと賑わいを持つ。母が買い物へいくとき、毎日のように付いていった。いたずらをすれば母は厳しかったが、一番やさしくも接してくれた。神戸を『源流』とする理由には、やはり母の存在が含まれる。

■面接官に響いた率直な答えで就職先が決まる

 市立の小・中学校、県立神戸高校へと進むうちに、神戸の風土が身に沁み込んでいく。中学と高校はバスケットボール部、73年4月に京都大学経済学部へ入学した。就職では、ある銀行から内定をもらった。だが、あるとき大阪から阪急電車で三宮駅まで帰ってくると、日本生命の会社説明会の看板が目に入り、何げなく入った。すると、面接官の社員に、思いもしないことを尋ねられる。

「きみは、いまから言う三つのタイプのどのタイプだ。一つ目は頭がいい、二つ目はスポーツマン、三つ目はリーダーシップがある。どれだと思う」

 運動は高校までしていたが、スポーツマンと言えるほどではない。リーダーシップを発揮した経験もない。おこがましいが一つ目しかないと思い、「1番目です」と言った。面接官の顔に、何かが走った。消去法で出した答えだが、多くの人は選ばないのかもしれない。それが、強く印象に残ったらしい。翌日に大阪本社で面接となり、入社が決まる。

 77年4月に入社し、大阪本社の企業保険業務課へ配属。企業向けの団体保険や年金などを統括する司令塔で、3年いて、営業計画の原案を書いた。立案して書き上げる作業は好きで、言葉選びにもこだわった。課長に削られても、削られる前の案をそのまま出したりしたが、叱られた覚えはない。「これまでと異なったことをやりたい」という『源流』がもたらす仕事ぶりが、始まっていた。

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