決勝再試合、夏の大会3連覇がかかる駒大苫小牧は田中将大(右)の三振で試合終了。投手は早稲田実の斎藤佑樹=2006年8月

 そして、数々の名勝負や名シーンが生まれる。

 1933年夏には中京商(愛知)−明石中(兵庫)が延長25回の大熱戦を演じ、スコアボードが即席で継ぎ足された。1939年夏は海草中(和歌山)の嶋清一が準決勝、決勝でノーヒットノーランを達成している。

 その間、大阪タイガースが誕生し、1936年からプロ野球も始まった。

 ただ、すでに戦時色が濃くなりつつあった。1943年には内野スタンドを覆っていた大鉄傘が金属供出によって取り外され、やがて球音が響かなくなる。グラウンドは芋畑となり、終戦後は米軍に接収された。

 グラウンドに球音が戻ったのは1947年。春夏の甲子園大会もプロ野球も再開され、選手のプレーやかけ声、スタンドの歓声が、敗戦から再起する人々を勇気づけることになる。

 大学アメリカンフットボールの「甲子園ボウル」も、この年からスタートしている。

 日本の復興に歩調を合わせるように、高校野球もプロ野球もどんどん盛んになり、甲子園は一人一人の記憶とも相まって、忘れられない思い出をつくりだしていった。「怪童」尾崎行雄や「怪物」江川卓が剛腕をうならせ、「ドカベン」香川伸行がホームランをかっ飛ばした。

思いつもる特別な場所

 1985年にはKKコンビが有終の全国制覇を飾り、バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発が飛び出して阪神タイガースが日本一に輝いた。

 時代が昭和から平成になり、阪神・淡路大震災も乗り越え、球場はドラマを紡いでいく。「松坂世代」が躍動し、ハンカチ王子とマー君が決勝引き分け再試合を演じた。タイガースは星野仙一監督を胴上げしている。

 そして、平成の大改修工事で古くて新しいスタジアムに生まれ変わり、令和を迎え、球場は100歳の誕生日を迎える。

「本当にたくさんの方々が、それぞれ強い思い入れを抱いてくださっている球場だと感じます」

 阪神電鉄甲子園事業部の歴史館・広告担当として、100周年記念事業を担当する湯山佐世子さんは言う。

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