「お父さん、犬が死んでるよ」
インタビュー中、そう叫ぶ子どもの声が家の外から響いた。話をしていた「お父さん」は一瞬だけ話を中断したものの、すぐに何事もなかったように続きを語りだす。放っておいてもいいのかと戸惑いつつ聞き手は尋ねるが、相手は大丈夫だという……。
岸政彦の『断片的なものの社会学』は、彼が社会学者としておこなっている個人の生活史の聞きとり調査からこぼれ落ちた、「分析できないもの」をめぐるエッセイ集だ。冒頭の出来事もその一つで、聞き手の岸は10年以上たった今でも、取材の趣旨とは何ら関係ないこの唐突な一場面を鮮明に記憶しているらしい。
このようなインタビューの周辺だけでなく、岸自身の体験を題材にした文章も登場するのだが、それらに一貫しているのは、「無意味さ」への愛着だった。
私たちの人生の基盤となる物語から逸脱した、「欠片」のようなものたちについて、岸は飄々と思いをつづっていく。
その文章は、まるで森の奥の湖畔に用意された手術台で薄皮を一枚ずつ剥がしていくように、静かに、私たちが隠蔽している真実に迫ってくる。そして、人生そのものの「無意味さ」を明らかにしてしまう。孤独の本質も淡々とあらわれる。
〈そもそも、私たちがそれぞれ「この私」であることにすら、何の意味もないのである。私たちは、ただ無意味な偶然で、この時代のこの国のこの街のこの私に生まれついてしまったのだ。あとはもう、このまま死ぬしかない〉
岸は「無意味さ」の意味について書いた。それは、私だけでなく、私を取り囲む世界への言及でもあった。
急速に寛容性や多様性を失いつつある世界で、そこに生きる人々がもう少し「無意味さ」を認められれば、どんなにいいか。どれほど生きやすくなるか。岸の静かな文章は、そのことを問うている。
※週刊朝日 2015年7月24日号