柴田勝家の居城だった北庄城跡にある三姉妹の銅像。向かって左から、長女の茶々、三女の江、次女の初(写真/かみゆ歴史編集部)

 平安時代結婚は、夫が妻のもとを訪ねる「通い婚」だった。それが「嫁取り婚」に変わったのは武家政権が成立した鎌倉時代以降のこと。武士は所領を守らなければならず、基本的にその土地を離れない。そこで、夫が妻を迎え入れる形に変化した、というわけだ。

 その「結婚」が、現代のような恋愛ではなく家と家の相談で「政略」として行われたことは、大河ドラマどうする家康」でも繰り返し描かれている。放送開始当初の2023年1月23日に公開した記事【家康支えた「徳川四天王」とは? 戦国大名は「家臣」を統率し、「女性」は自分の意思で動いた】でも、詳しくリポートした。

 12月10日に放送される「どうする家康」第47回では、ある3姉妹の人生が、豊臣家の存続や「戦なき世」の真の実現をかけて交錯する場面が描かれるようだ。『地域別 × 武将だからおもしろい 戦国史』(監修・小和田 哲男/編集・かみゆ歴史編集部)にも、3姉妹の名前は節目節目に登場している。織田信長の妹・お市の方を母に、浅井長政を父に持ち、長女は茶々、次女は初、三女は江。世に言う「浅井三姉妹」だ。

 そもそも、お市の方が浅井長政に嫁いだこと自体、政略結婚の最たるものだ。浅井家は北近江守護京極家の家臣として並び立つ十数の国人の一つにすぎなかったが、長政の祖父にあたる亮政のときに国人連合の盟主的存在となり、小谷城を築いて北近江3郡に地歩を固めた。南近江守護の六角家とも抗争を繰り広げたが、越前浅倉家の援助を受けながら江北の支配を守った。長政の父の代で一時、六角家に臣従を余儀なくされたが、長政はこれに反発。敵対姿勢を明らかにして「野良田の戦い」で六角軍を撃退、戦国大名として自立を果たした。

 その後、長政はお市の方を妻に迎え、信長が朝倉家に敵対しないことを条件に同盟を結んだが、信長は朝倉討伐を決行。やがて朝倉家は滅ぼされ、浅井家の小谷城も織田軍の猛攻で落城した。お市の方と浅井3姉妹は救われて織田家に引き取られるも、信長は本能寺の変で自害。後継者を決める「清洲会議」の後にお市の方は柴田勝家と再婚する。3姉妹も勝家の居城である北庄城で暮らした。

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三姉妹が歩んだ「別々の道」