平成から令和への代替わりに伴う「大嘗祭発言」も、波紋を広げた。
18年、秋篠宮さまは53歳の誕生日会見で、天皇の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭」について、
「宗教色が強いものについて、国費で賄うことが適当かどうか」
と懸念を示したのだ。
「大嘗祭は絶対にすべきもの」としながらも、必要以上にお金のかかる儀式とせず、「身の丈にあった儀式」にすることが「本来の姿」だと指摘した。
後日、秋篠宮さまは江森さんに、この発言の真意というべき内容を吐露している。
「このようにすることで、令和の大嘗祭が『将来的に後ろ指をさされることにならない』とも考えました」
「死以外に譲位の道がないのは『奴隷』」
天皇の定年制や大嘗祭についてなど、皇室の根幹に踏み込む秋篠宮さまの言動は、故・三笠宮崇仁さまや長男の故・寛仁さまを思い起こさせる。世間が皇室に対して、「こうあるべきだ」とする固定観念や慣習を超えて、皇室の中から新しいメッセージを発信し、問題提起を続けた皇族だ。
皇族将校として中国・南京へ赴いた三笠宮さまは、戦時中にもかかわらず、「聖戦」へ疑問を投げかけた。
終戦翌年の1946年、政府は天皇の生前退位を規定しないという皇室典範の方針を打ち出した。三笠宮さまは、それに異を唱えた。
〈「死」以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八條の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」といふ精神に反しはしないか?〉
「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」と題する意見書を作り、天皇の地位について、
「必要最小限の基本的人権としての譲位を考えたほうがよいと思っている」
と疑問も投げかけた。
また、50年代に2月11日が「神武天皇即位の日」であるとして、戦前の「紀元節」を祝日として復活させる運動が起きた際には、三笠宮さまは「歴史的根拠がない」と批判。
反発した右翼が三笠宮邸や旅行先のホテルに押しかける騒ぎに発展したが、三笠宮さまは「神話と歴史は違う」と周囲に話し、これを撤回することはなかったという。