硫黄島(撮影:宮嶋茂樹)

謎の英語のささやき声

総延長約18キロにも及ぶ地下壕は硫黄島の戦いの象徴である。映画「硫黄島」では壕に潜む日本兵におびえる海兵隊員の姿が繰り返し映し出される。さらに壕の中で喉の渇きに苦しむ日本兵についても語られる。

宮嶋さんは、栗林忠道(ただみち)中将が指揮をとった「司令部壕(栗林壕)」のほか、負傷兵を収容する「医務科壕」、「炊事壕」などに潜った。

「炊事壕は入り口をくぐったら、すぐに立って歩けなくなって、最後は匍匐(ほふく)前進で進みました。硫黄のにおいがすごかった。酸素はあるのか、強い不安がよぎりました。そこには米や乾パン、乾燥野菜が残されていた」

写真には散乱する「暗号文面」と書かれた紙や軍靴などが原形を保ったまま写っている。

「すさまじい暑さで虫が湧かないし、腐らないんですよ。医務科壕でも50度近くあった。炊事壕は60度くらい。首にかけたタオルが1時間もすると、水に浸したようにびしょ濡れになった。ものすごく消耗します。こんな場所に1カ月もこもって、補給もなく戦い続けたというのは想像を絶します」

宮嶋さんは医務科壕と司令部壕に泊まり、内部を夢中で撮影した。

「あれも撮りたい、これも撮りたい。あの先はどうなっているのか。明かりをともすケーブルが足りない、どうしようとか。そんなことばかり一晩中考えていました。なので、全然、怖くなかったですね」

司令部壕を撮影したとき、不思議な体験をした。真夜中に英語のささやくような声が聞こえてきたのだ。その声は1時間ほど続いた。

「何を言っているのかはわかりませんでしたけれど、翌朝、自衛隊の司令部に帰って、そのことを話したら、夜中に米軍の輸送機がきたので、栗林壕を見物に行ったんだろう、って言われた。でも、壕の入り口は小さいし、そこで発電機を回していたのに。それに、いくら米軍とはいえ、真夜中に外出できるのか。いまだに謎です」

国後島(撮影:宮嶋茂樹)

着いたものの上陸拒否

国後島は硫黄島とは対照的に、本土に非常に近い。北海道・野付半島からわずか17キロの距離である。

「でも、政治的にはとても遠い。今ならどうすれば行けるのか、わかりますけれど、当時は何も情報がなかったので苦労しました」

国後島行きを最初に試みたのは98年2月。函館空港からサハリンのユジノサハリンスク(豊原)を経由して国後島に飛んだ。舗装されていない、穴の空いた鉄板を敷いただけの滑走路に着陸した。

「ところが、空港に着いたら書類不備を理由に上陸を拒否された。それが本当の理由なのかはわかりません。乗ってきた飛行機でそのまま送り返されました」

1カ月後に再びトライすると、今度は上陸を許可された。

現在、国後島には日本人は一人も住んでいない。旧ソ連が日本人の全島民を追放したのは終戦から3年後の48年である。

「わが国の領土であるにもかかわらず、旧ソ連によって理不尽なことが行われた。最近はそんなことも子どもたちに教えられていないでしょう。何とかしたい、という気持ちがありました」

旧ソ連時代から2000年代まで国後島の実態はベールに包まれていた。

「ロシア人が撮った写真でさえスクープというくらい、情報がなかった。そこへ行って、ばっちり写真を撮りたいという、名声欲みたいなものもありました」

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