東京都・硫黄島と北海道・国後島は日本の領土でありながら、戦後、ここを故郷とする日本人でさえ訪れることが困難になってしまった場所である。
「どちらの島も、国や領土について、考えさせられる取材でしたね」と、宮嶋さんは言う。
「日米両軍が激突した硫黄島はアメリカ人にとって特別な場所です。どこの海兵隊の基地に行っても、硫黄島で撮影した写真をモチーフにした像がある。それでも、アメリカはこの島を日本に返還した。しかし、ロシアが実効支配する北方領土については、これまで長年にわたり交流事業を行ってきたにもかかわらず、寸土でも帰ってきたのか。戦後、旧ソ連は日本人を非人道的に追い払ったにもかかわらず、ですよ」
硫黄島戦の象徴「地下壕」
東京から南へ約1250キロに位置する硫黄島は東西約8キロ、南北約4キロの小さな島である。宮嶋さんは94年に初めて硫黄島を訪れて以来、5回も足を運んだ。
太平洋戦争末期の1945年2月、硫黄島を本土空襲の支援基地として狙う米軍は総攻撃を開始した。約40日間にわたる凄惨な戦闘で、戦死者は日本側が約2万1900人、米国側が6821人とされる。その後、硫黄島は68年まで米国に統治された。
米海兵隊の記録チームが撮影した硫黄島の戦いのフィルムは編集され、73年、映画「硫黄島」として公開された。当時、宮嶋さんは父親に連れられてこの映画を見に行った。
「あの印象はすごかったですね。それに硫黄島はAP通信のジョー・ローゼンタールが擂鉢山(すりばちやま)の頂に海兵隊員が星条旗を掲げる有名な写真を撮影した場所です。なので、ぜひ行ってみたかった」
硫黄島は自衛隊が管理しているため、自衛隊の協力が得られなければ、島を訪れることはできない。宮嶋さんは、防衛省の広報誌の取材というかたちで自衛隊機への搭乗が認められた。
厚木基地(神奈川県)を飛び立った哨戒機には、通常の撮影機材のほか、発電機や投光器が積み込まれた。
「地下壕をじっくり撮りたかったので、壕の中で宿泊したいと、お願いしたんです。本省からは『無理です』という回答でしたが、現地に着くと、基地司令が『まあ、いいでしょう』と言ってくれた。牧歌的な時代でしたね」