2011年、サッカー女子W杯。準々決勝で当時2連覇中だったドイツ、決勝ではPK戦の末アメリカを破り、初優勝した
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 近年、日本スポーツの躍進が目立つ。かつては世界と対峙できなかった競技でもトップレベルの力をつけてきている。その背景を探った。AERA 2023年10月16日号より。

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 1989年12月29日、東京証券取引所は万雷の拍手に包まれた。年内最後の取引日「大納会」のこの日、日経平均株価の終値は史上最高値となる3万8915円87銭を付けた。バブルのただなかにあった日本経済が絶頂を迎えた瞬間だった。

 空前の株高に沸いたその日、錦織圭は東京の狂騒から遠く離れた島根県松江市で生まれた。姉が一人いるごく平均的な家庭だった。5歳でテニスをはじめメキメキ頭角を現すと、13歳でテニス留学のため渡米、17歳でプロに転向する。沈みゆく日本経済とは対照的に、錦織は己が力で道を切り開き、世界のトップへと上り詰めていった。

14年、全米オープン決勝を戦う錦織圭。4大大会のシングルスで決勝に進出するのは男女通して日本人初だった(写真:AP/アフロ)

 錦織以前、世界と戦える日本の男子テニス選手はほとんどいなかった。男子シングルスの世界ランキング最高位は松岡修造が92年に記録した46位、戦後の4大大会では同じ松岡の95年ウィンブルドン8強が最高記録。だが、錦織はあっという間にその記録を塗り替えていく。18歳でツアー初優勝を果たし、21歳で松岡のランキング記録を超えると、2014年に全米オープンで準優勝。翌15年には世界ランキング4位につけた。世界の超一流選手の証しであるランキング10位以内には、計212週にわたって在位した。

平成期にまいた種開花

 朝日新聞のスポーツ担当編集委員で、錦織を長く取材してきた稲垣康介さんはこう語る。

「錦織圭はバブル経済が最高潮だった日、逆に言うと日本の凋落が始まった日に生まれ、バブル後の停滞感・閉塞感とは関係なしにアメリカへ飛び立って、コーチらの助けを得ながら独力であそこまで上り詰めた。平成から令和にかけて強くなった日本スポーツを象徴する人物です」

 近年、日本スポーツの躍進が目立つ。サッカー、ラグビー、バスケットボールなどのワールドカップ(W杯)が日本代表の活躍で盛り上がり、21年の夏季東京五輪、22年の冬季北京五輪ではいずれも過去最多のメダルを得た。

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