今多くの知識人やマスコミ、あるいは一般人さえもが、国家主義の強大化を懸念している。現政権が軍事大国へと舵(かじ)を切りつつあることを、誰もが感じ取っているからだ。ところが、不思議なことに大きな反政府運動が起こる気配は感じられない。国民は至って平穏に日常を過ごしているのである。
諸外国で展開する反政府運動やデモの動きとはあまりに対照的なこの国の状況を、どう見るべきか。私はあえてこれを「民主主義の病」としてとらえ、その克服を呼びかけたい。本来、国家主義の強大化に対して、国民は声を上げ、おかしいと思えばそれをコントロールしなければならない立場にある。国民による国家のコントロールこそが民主主義の本質だからだ。
では、なぜこの国では民主主義がそのように機能していないのか? 一言でいうと、それは近代市民革命を経験していないことによるというのが私の答えである。西洋社会では、フランス革命に見られるように、人々は市民革命を経てようやく自分たちで国家をコントロールすることの意義を知った。だからこそ、平時には熱心に政治参加し、非常時には抵抗を示すべくデモを行ったりするのだ。
そこで私は、そうした革命の精神を自覚し、民主主義の病を克服することを訴えたいと思う。その際意識しなければならないのは、私たちの置かれた時代状況の認識である。今年は戦後70年ということで、様々な形で歴史の見直しが行われている。もっとも、日本の近代化については、明治維新までさかのぼり、次の三つのステップでとらえる必要があるだろう。
つまり、第一のステップが、1868年の明治維新から1945年のGHQ革命までの77年間。第二のステップが戦後の70年間、第三のステップが来年2016年からの次の70年間である。
言い換えると、これは日本が真の意味での近代化を遂げるためのステップであるといってもよい。ここでいう真の意味での近代化とは、市民が社会の主役となることを指している。第一のステップでは西洋という名のヨーロッパが入ってきて、日本は形のうえでは近代化の入り口に立った。しかし、そこでは天皇が主役で、市民は天皇の臣民でしかなかったのである。
第二のステップでは、民主主義という名のアメリカが入ってきて、日本は本来ここで近代化を完成するはずであった。ところが、民主主義はついに日本の風土に根付くことはなく、保守政治の専制のもと形骸化してしまっている。その原因を鋭く指摘したのが、白井聡の『永続敗戦論』だ。
そうしてついに戦後70年がたち、第三のステップとして、今度はグローバリズムという名の世界が入ってきている。したがって、ここで市民が主役になれるかどうかは、グローバリズムとの対峙(たいじ)の仕方次第である。だから今こそ、明治維新、GHQ革命に続く、新たなムーブメントを起こす必要があるといえよう。
いわばそれは「民主主義の革命」とも呼ぶべきものである。民主主義を知らないこの国の未来を、間違った方向に導かないためにも、新たな策を講じなければならないのだ。必然的にそのプロジェクトは、「脱永続敗戦」を志向することになるだろう。具体的には、功罪相半ばする日本の特徴である集団主義と形式主義を刷新し、この各々の特徴の良さを生かす形で、「開かれたコミュニタリアニズム」と「理に¥ルビ(適,かな)ったプラグマティズム」という二つの概念を病への処方として提起したい。
つまり、「開かれたコミュニタリアニズム」によって、連帯をはじめとした集団主義の良さを生かしつつ、その負の側面である閉鎖性を克服していくべきだと考える。そのために、政治参加のイノベーションを図り、もっと頻繁に市民が政治参加できる仕組みを整える必要がある。さらに、熟議文化を醸成することで、議論を通じて物事を進めていく風土を育まなければならない。
また、「理に適ったプラグマティズム」によって、形式主義の帰結としての専門知を生かしつつ、その負の側面である政治の専門化を克服し、プラグマティックな素人知との協同を試みていく必要があるだろう。
こうした新たな政治哲学の提案が民主主義の病を克服し、国民による国家のコントロールを可能にするに違いない。
国家主義の強大化は、国民の犠牲を顧みない。それは歴史が物語るとおりである。戦前は民主主義が歯止めにならず、悲劇をもたらした。歴史は繰り返す。ただ、それに抗うチャンスは常に与えられている。そのチャンスを生かせるかどうかは、私たちの知性と行動にかかっている。