鎧装束を着込み、兜だけ脱いだ姿で行った。打ち鮑、勝栗、昆布はそれぞれ5切れ用意するのが常だった。イラスト/瀬川尚志
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 戦国時代は常に臨戦態勢だったとはいえ、大軍が戦場へと移動して、命をかけて戦うには、相応の準備が必要だった。出陣前の作戦会議にはじまり、兵の招集、人数の確認、出陣の儀式、兵站輸送、そして着陣まで。週刊朝日ムック『歴史道Vol.29 戦国時代の暮らしと作法』では「出陣の手順と作法」を特集。今回は、合戦の勝利を願う「出陣の儀式」について解説する。

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 武将が出陣する際に行う代表的な儀式のひとつが、三献の儀式だ。これは、最初に打鮑を、次に勝栗、最後に昆布を食べて、それぞれを食べた後に3回ずつ、計9回酒を飲むというもの(『随兵之次第事』)。いわゆる「三三九度」である。単に「打って、勝って、喜ぶ」という語呂合わせに過ぎないが、当時の人々がいかにゲン担ぎを重要視していたかがうかがえる。

 さらに、大将が家臣一同の前で三献の儀式を行い、注がれた酒を全員で飲み干すことで、出陣に向けて家臣との一体感も生まれた。

 また、戦国大名は勝利を呼び寄せるべく、合戦前に寺社で戦勝祈願を行い、勇ましく鬨の声を上げるなどした。家臣との一体感を強める儀式として、ともに連歌を詠む連歌会もあった。その連歌も勝利祈願として寺社に奉納された。

 文明九年(1477)五月、太田道灌は江古田原・沼袋(東京都中野区江古田・沼袋付近)で、豊島泰経と戦った(江古田・沼袋の戦い)。このとき、道灌が本陣を置いたのは沼袋氷川神社で、道灌は配下の者たちと社殿に詣でて、戦勝を祈願するために杉の木を植樹した。結果、道灌は泰経を打ち破り勝利。のちに、その杉の木は、「道灌杉」と呼ばれるようになったのである。

 このほかの戦勝祈願としては、兜の上に締める上帯の端を切って捨てるというものもあった。上帯の端を切ると、鎧を結んでいる帯が解けなくなることから、「鎧を脱がない」「決して生きては帰ってこない」という覚悟を示したもので、前田利家が出陣する際に行ったという。

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.29戦国時代の暮らしと作法』から