父や社員に囲まれて育つ(写真:本人提供)

 子どものころ、母が誕生会をしてくれて、友だちを呼んで騒いだ。正月には社員たちであふれ、父がローストビーフを焼いてあげた。みんなが酒を飲んでいる陰で、台所でつまみ食いをし、酒を口にしてみたこともある。そんな思い出が詰まったところだけに、建て直しはしたくない。和風の木造建築のままの改装を頼み、1年かけていまの姿になった。費用は2億円近く。設計士に「建て替えたほうが安い」と言われたが、『源流』からの清水(せいすい)は、淀ませてはいけない。

和風の魅力残す旧宅の迎賓館に外国人らが感激

 訪問客でとくに感激してくれるのは、海外取引先のトップたちだ。くつろげる雰囲気で、話は仕事から互いの国の文化や家族へと及ぶ。日ごろは製品に厳しい注文をつけるドイツの自動車メーカーの技術担当役員も、「これほどの文化を持つ会社と取引できることは、とても幸せだ」と、握手をしてくれた。

 92年に社長になって約30年、「ほんまもん」を追求し、分析や計測の機器メーカーとして世界的な存在になった。製品は多様な分野で使われ、エンジンから出る排ガスの測定や分析の装置は世界の約8割を占める。地球温暖化問題が重要になるほど「他人を真似ない」という独自路線の強みが、生きてくる。

市電から運転手パイロットへと変遷した「夢」

 子どものころ、父は日曜日は車に乗せてくれ、好きな西部劇の映画に連れていってくれた。京都学芸大学(現・京都教育大学)付属京都小学校へ入り、市電で通い、乗ると必ず運転席の横へいって運転操作をみて覚えた。当然、「将来は、運転手になりたい」と思っていた。

 ところが、58年秋に国鉄(現・JR)が東京〜大阪間で「日帰りできるビジネス特急」の謳い文句で始めた「こだま」で、6年生のときに父が東京へ連れていってくれると「これは、こだまの運転手になりたい」となる。さらに帰りに飛行機に乗り、操縦席をみせてもらうと「やっぱりパイロットだ」と変わった。子どもらしい夢の変遷も、「おもしろおかしく」と「ほんまもん」の『源流』が生んだのだろう。

 71年春に甲南大の応用物理学科を卒業。父に「米国へいきたい」と言うと「米企業と合弁会社をつくったので、そこへいったらどうか」との話になり、合弁会社のサービスマンとして就職する。でも、ビザが下りたのは半年余り後。その間、京都の本社で製品の保守や修理の訓練を受けた。暇つぶしに思えたが、実は、これがよかった。

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