渡米すると、会社の床に日本から届いた堀場の検出器が並べられ、故障しているようだった。サービスマンだから直さないといけないが、日本語の取扱説明書しか送られてきてなく、テレックスで本社に「どう対応したらいいのか」と打電した。でも、「日本では、そんな故障はない」と、相手にされない。

 後で分かったが、検出器を飛行機で輸出したので、詰めていたガスが気圧の低下で抜けていた。米国人社員たちが「どうするのか」と非難を込めた目でみるなか、1人で記録計につないで観察すると、全部が使えないわけではないと分かり、選別して修理した。ここで、京都での半年の「暇つぶし」が生きる。原因も解析できて、米国人社員たちのみる眼が変わった。

 やがて合弁相手が軍事産業の大手に買収され、堀場は製品の開発や設計を手がける米子会社を独自につくり、そこへ移籍した。だが、大学で学んだ物理の知識だけでは、足りない。休職してカリフォルニア大学アーバイン校の3年生へ編入し、大学院の電子工学科へ進んだ。

 米国から帰国した78年、父が社長から会長になって「おもしろおかしく」を社是にした。これを「Joy and Fun」と英訳し、世界の拠点で掲げた。社内から「お笑いでもあるまいし」と反対の声も出たが、父は「人生80年のうち最も可能性の高い40年を充てる仕事が、おもしろおかしくなくて何の人生か」と笑い飛ばす。趣旨は、「自分で考え、自分で決めて、自分で責任を取ってやれ」だ。自分にも、全く違和感はなかった。

 社長に就く前年の91年に建てた30人が宿泊できる研修所も、その精神の塊だ。琵琶湖西岸にあり、ロビーのラウンジ中央に大きなオープン暖炉を据えた。子どものころ、風呂釜に薪をくべたときに感じた輻射熱が、下敷きにある。心を落ち着かせる効果があり、研修後に暖炉を囲み、自由に飲める酒類を手にふだんは会えない同士が連帯感を深めてもらいたい。だから、暖炉は夏も燃やしている。2009年に新棟も増設し、リゾートホテル風にして100人が宿泊できる。もちろん、オープン暖炉を置いた。

 92年1月に社長になったが、その後3年は減収減益。事業領域が広がり過ぎていたし、営業分野へのムダな投資もあった。開発部隊が君臨する風土の欠陥も、大きかった。でも、営業も開発も体制を見直し、97年3月期に増収増益を達成。先々を見据えて96年にフランスの血球計数装置メーカー、97年には光学分析機器メーカーを買収した。いま前者は医療用分野を支え、後者は科学分野で貢献する。

 やりたいことは、まだまだ続く。父母から受け継いだ「おもしろおかしく」と「ほんまもん」の『源流』は一つになって、経営の大黒柱となっている。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA 2023年9月11日号