ヨットが好きで、愛艇は琵琶湖にある。湖畔から近い工場で、自室をCaptain’s Cabin、売店をPORT CALL(寄港地)などと名付けている(撮影/山中蔵人)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年9月11日号より。

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 父・雅夫氏は京都人らしく、他人の真似を恥とした。規模は小さくても独自の分野で世界に通用する企業になるとの志を抱き、京大理学部の学生だった終戦の年、京都市下京区に事務所兼自宅を借りて堀場無線研究所を構えた。日本の「学生ベンチャー」の先駆けだ。

 戦争末期に伊丹空港(現・大阪国際空港)へレーダーの研究にいき、神戸市の酒屋の娘で空港の手伝いにきていた母・美喜子さんと出会い、大学卒業後に結婚した。1953年1月に堀場製作所を設立、京都市中京区にあった製粉工場跡を社屋兼工場兼住宅とする。何事も「おもしろおかしく」が口癖だった。この間の48年2月に生まれ、数十人の従業員たちに遊び相手になってもらいながら、父の精神が身に染み込んでいく。

凛とした所作に和服を着こなす自慢の母だった

 母は料理が上手で、凛とした所作で客をもてなし、授業参観日に和服を着こなして現れると級友が「お母さん、すごいね」と言うのが、自慢だった。躾もいき渡り、小学校5年生のときに先生に「言葉遣いが正しく美しいね」と褒められた。母は贅沢ではないが、着物や食器などはいいものにこだわり、大事に使った。教わったのが「ほんまもん」をみきわめる眼だ。

「おもしろおかしく」の精神と「ほんまもん」を大事にする生き方。これが、堀場厚さんのビジネスパーソンとしての『源流』となる。

「ほんまもん」を追求した典型が、金閣寺に近い北区紫野南花ノ坊町にある堀場のゲストハウスだ。小学校3年生のときに製粉工場跡から住居だけを移したところで、甲南大学を卒業して渡米した後に「雅風荘」と名付けられ、社内の懇親会などに使われた。それを社長になって賓客の迎賓館に使いたいと思い、桂離宮の修復を手がけた宮大工に依頼して改築する。

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