徳川家康の軍師と言えば、本多正信。大河ドラマ「どうする家康」で松山ケンイチが演じる「家臣団の嫌われ者」がその人だ。
静岡大学名誉教授で、戦国時代を中心に日本中世史を研究する小和田哲男氏が監修した『地域別 × 武将だからおもしろい 戦国史』(かみゆ歴史編集部編)には、「日本の文献に『軍師』という正式な軍職があったことは確認ができない」とあるが、一方で「その実績から見て、後世にいう『軍師』と位置付けられる者が存在したことは明らか」とも記されている。
「軍配者」とも呼ばれたという「軍師」たちは、戦国大名にとってどんな存在だったのか。『地域別 × 武将だからおもしろい 戦国史』からひもときたい。
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日本人最初の軍配者とされるのが吉備真備(きびのまきび)である。遣唐使に随行した留学生として2度も唐へ渡り「諸葛亮(しょかつりょう)八陣」や「孫子九地の戦法」といった唐の兵法を身につけたという。また真備は、陰陽道(おんみょうどう)の先駆者ともいわれる。
実際、軍師の職務は、陰陽道と重なる部分が多い。室町幕府の執事(のち管領)細川頼之が残した「軍法消息」という史料には、2代将軍足利義詮(よしあきら)に宛て「出陣の日時については、陰陽師に問うのが良い」といった趣旨のことが記されている。さかのぼれば、源義家に仕えた大江匡房、源頼朝に仕えた住吉昌長は陰陽師で、戦勝祈願をしたなどの記録がある。
戦国武将にとって出陣日や合戦の日時を選ぶのは大事だった。「十死日」や「絶命日」という悪日があることが信じられており、それは総大将の生年や干支によって変わるものであったから、必然、天文や暦法に通じた人物が必要とされたのだ。
つまり「軍師」とは、戦略を立てたり軍を指揮したりするだけの存在ではなかったということだ。果たした役割によって、「軍師」は5種類に分類される。その5種類を以下の表に示した。