今でこそパソコン事業を「LENOVO(レノボ)」に売却したが、IBMはコンピューター業界の“巨人”とも呼ばれ、その製品やロゴの色から「Big Blue」との愛称で親しまれてきた。
IBMといえば、コンピューターの歴史とともにあるが、同時に電動タイプライターの草分けでもある。そもそもタイプライターという機械は19世紀に誕生し、手動式から電動式、そして電子式へと発展していくわけだが、どこの誰が発明したものか? 諸説あるが、「タイプライターは52回発明された」と言われるように、実は確固たる答えはないようだ。
20世紀前半、電動タイプライターの時代が幕を開けると、IBMは1935年に「Electric Typewriter Model 01」を発売する。先行する企業はすでにいくつかあった。だが、この時期の電動タイプライターは未成熟で、価格も高く故障も多いなど難点を多く抱えていた。この普及に大きな貢献をするのが、IBMだったのだ。
そして61年、7年におよぶ研究開発の末、「IBM Selectric typewriter」が発表される。このモデルは画期的だった。
従来のタイプライターが、先端に活字の付いたハンマーのようなもので紙をたたいて印字していた。それに対して、このモデルには「タイプボール(typeball)」と呼ばれる部品が取り付けられた。
それはゴルフボールのような形をしたもので、球面にアルファベットすべての文字が彫り込まれている。これが紙をたたく前に素早く上下左右に回転して、一瞬のうちに印字するのだ。熟練したタイピストでも旧来の電動タイプライターでは毎分50語くらいしか打てなかったところ、90語も打てるようになったという。しかも、同一文書内で異なったフォントに変えることも可能にしたそうだ。
このモデルとその後継機種により、IBMは後にアメリカのビジネス用電動タイプライター市場のシェア75%を獲得することになる。11年にはかりやタイム・レコーダー、会計機などを製造する小さな会社から始まったIBM。その大躍進のきっかけかもしれない。
現在、IBMは巨大なグローバル企業として知られ、日本にも日本法人がある。では、日本とIBMの接点は最初どのようにしてできたのだろうか。その歴史は大正時代にさかのぼる。
1923年(大正12年)、当時、日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)の重役だった加藤理三郎が、ニューヨークの森村ブラザース・インコーポレーテッド社を訪問する。同社は、米国で日本陶器の製品を現地販売する会社だった。
日本陶器がアメリカで高く評価され受注が激増するなか、事務処理が追いつかず生産に支障をきたしていた。それを機械によって合理化させるために、加藤は渡米したのだ。そして、彼を支援すべく、森村ブラザースから2名の社員が派遣される。そのひとりが、後に日本IBMの”事実上”の創立者となる水品浩(みずしな・こう)だ。
水品らの奮闘により森村ブラザースを系列に収める森村組が、IBMの日本代理店権を獲得する。そして、加藤が渡米してから実に14年後の1937年(昭和12年)、「日本ワットソン統計会計機械株式会社」が設立された。この年が「日本IBM」の創立の年となったのだ。
日本陶器を製造する会社、それを代理で販売する会社、それらの会社を機械でサポートする会社、さまざまな企業がつながることで日本IBMは誕生した。そして、事務処理をサポートする機械から始まった日本IBMだが、その後もさまざまな企業とつながることで、次第にコンサルティングを含むサービス、ソフトウエアなどからなるビジネスソリューションに重心を転換していった。
その礎を築いたのが陶器屋だったとは、現在、日本IBMと取引のある企業の方でも、あまり知らないのではないだろうか。
(ライター・佐野泰人)