芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。
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岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」
1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。
生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。
「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」
謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、
「全然違いますね」
公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。
賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。
質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。
だが、岸部の父親への視線は温かい。
「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」
明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。
「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」