李克強氏から「克」の字を抜いた名前でまぎらわしいが、2人の経歴は大きく異なる。

 李克強氏が共産主義青年団で若いころから頭角を現し、経済に通じた「テクノクラート(技術官僚)」タイプだったのに対し、李強氏は学歴も低い叩き上げの地方役人だった。

 李克強氏からすれば、李強氏など視界にも入らない「小役人」に映っていただろう。2人の運命が変わったのが、習近平氏が浙江省トップだった2004年。李強氏は同省の秘書長になった。習近平氏はことのほか李強氏をかわいがった。「習近平のあいまいで矛盾したリクエストを直感的に素早く理解し、政策に落とし込む才能があった」(ウォール・ストリート・ジャーナル紙)。習近平氏は地元新聞で「之江新語」というコラムを書いていたが、実際の筆者は李強氏だったとも言われる。演説も李強氏が執筆した。

 12年に習近平氏が党総書記になると、李強氏も浙江省の省長、そして上海市の党トップと出世の階段を上った。浙江省には、巨大ネット企業「アリババ」の本社がある。李強氏は創業者の馬雲(ジャック・マー)氏とも交流があったとされるが、馬雲氏は習近平氏の逆鱗(げきりん)に触れてアリババを事実上追放された。頂点に立った李強氏との明暗は見事に分かれた。

■献身的な働きを評価

 もう一人の側近で筆頭副首相についた丁薛祥氏は、李強氏の下で政府全体ににらみをきかせる番頭役になる。丁薛祥氏も習近平氏の秘書出身だ。上海市の中堅幹部だった丁薛祥氏は、習近平氏が浙江省の次に上海市のトップとして赴任したときに秘書長の役割を担った。献身的な働きぶりが評価され、中央に習近平氏が移ってからも、お世話係である総書記弁公室の主任を任されるなど、習近平氏に影のように寄り添う。

 経済や金融、科学技術を担当する副首相の何立峰氏と習近平氏の出会いは1985年にさかのぼる。習近平氏が福建省アモイ市に赴任して以来40年近い付き合いとされる。

 これらの人物に共通するのは、習近平氏が中央でトップに立たなければ、地方の中堅幹部として一生を淡々と終えたであろうという点だ。胡錦濤氏や李克強氏のように、30代から「将来中国を背負う人材」と目されたエリートではない。

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