鹿島時代の伊藤翔
鹿島時代の伊藤翔
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 欧州クラブによる日本人選手の“青田買い”が加速している。以前ならば、Jリーグで結果を残し、日本代表の肩書きを得た上で海を渡るケースが大多数だったが、日本人選手の価値向上とスカウト網の拡大によって海外移籍の若年化が進み、その中にはJリーグを経ずに高校を卒業後に直接、欧州クラブと契約する選手も増えて来た。

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 Jリーグ発足以降初めて日本の高校から海外クラブに入団したのは、伊藤翔だった。U-15時代から年代別代表に選出されてきた大型ストライカーは、中京大中京高3年時にアーセナルのテストを受け、その際に当時のベンゲル監督から「ティエリ・アンリを彷彿とさせる」と評価されて話題となった。アーセナルへの入団はプレミアリーグの労働許可証を得られずに破談となったが、高校選手権出場後にフランス2部のグルノーブルに加入することになった。

 だが、2部であろうとも即トップチームで試合に出るには能力、経験ともに足りず、FW陣のライバルの存在、ベテラン重視の監督の起用法、そして伊藤自身の怪我もあって、在籍した4年間(2年間はチームは1部に所属)でトップチームでのリーグ戦出場は5試合のみで無得点に終わった。21歳で帰国して以降はJリーグで一定の働き(昨季までJ1・J2リーグ戦通算281試合55得点)を見せてきたが、『和製アンリ』の称号からイメージされたものとは異なるキャリアとなっている。

 続いて高校から海外へ飛び立ったのが、宮市亮だった。中学2年時から年代別代表に選出され、中京大中京高では左ウイングとして注目を集め、高校2年時には“プラチナ世代”の一員としてU-17W杯に出場した。そして高校卒業前にアーセナルと契約を結ぶと、1年目からレンタル先のフェイエノールトで爆発的なスピードでのセンセーショナルなゴール、プレーを見せ、翌年にベンゲル監督に呼び戻された。だが、ここからが苦難の連続となった。度重なる故障離脱だ。

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大型FWも成功できず…