今月10月15日から、"名工中の名工"と言われる刀工・正宗の作による名刀「島津正宗」が京都国立博物館で公開されています。名刀・島津正宗は、悲劇の皇女として有名な和宮親子(かずのみや・ちかこ)内親王が、14代将軍・徳川家茂に嫁ぐときに、将軍家から天皇家へと献上されたと伝わっています。献上後の所在は長いこと不明となっていましたが、150年ぶりに所在が判明したことも話題となりました。



 仁孝天皇の第8皇女に生まれた和宮は、幕府と朝廷の"公武合体"の象徴として、日本史上初、天皇家から将軍家に嫁いだ内親王です。結婚話が持ち合った当初、和宮は生母・観行院とともに激しく抵抗しました。当時の皇族にしてみれば、京都を離れて江戸に下るなんてとんでもないこと、まして和宮にはすでに有栖川宮熾仁親王という婚約者までいたのです。しかし、1862年、ついに兄・孝明天皇の勅命を受け入れて家茂に降嫁することに。江戸城でも万事御所風を貫き通した和宮の存在は、13代将軍・家定の御台所だった天璋院篤姫の反感を招き、大奥でも嫁姑問題を巻き起こします。



 わずか4年半の短い結婚生活でしたが、家茂は和宮を大切に扱い、夫婦仲は大変睦まじかったそうです。第2次長州征伐に向かった家茂は、大坂城で病死。その際に和宮の手元に届いたのは、家茂が和宮のために入手した京都の西陣織でした。このとき和宮は「空蝉の 唐織衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」と哀惜の心を詠んでいます。のちに幕府瓦解の際には、夫の遺志を継いで嫁ぎ先を守ることに尽力しました。天璋院とも協力して、徳川宗家の存続を、自分の実家である朝廷側に訴えたのです。和宮の生涯は、激動の時代に翻弄されているかのように見えますが、自分の意志で物事を判断し、歴史の転換期に目覚ましく活躍した女性と言えるのではないでしょうか。



 ところで、本書『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』の著者・有吉佐和子さんは、かねてより和宮の「変化」に疑問を感じていました。なにしろ、当初は強固に降嫁に抵抗していた和宮が、家茂と結婚してからまるきり人が変わってしまったのです。とりわけ、和宮の以下のエピソードは有名です。



 和宮、家茂、天璋院がそろって庭に出ようとした際、どうしたことか、家茂の履物だけが、沓脱石の下に落ちていました。それを見た和宮はパッと縁側から飛び下りて、自分の履物を下に置き、家茂の履物を石の上に置き直したのだとか。和宮が、徳川の嫁として夫を立てたことがよくわかる逸話ですが、侍女に命じるならともかく、自ら履物を直すなんて、高貴な内親王とは思えない、いささか軽々しい振舞と言えなくもありません。



 ここで、有吉さんは大胆な仮説を立てます。降嫁を泣いて嫌がった和宮が、こんな行動をするだろうか。それに幼少のころから足が不自由だったとも伝わる和宮が、とっさに機敏な動作が取れるはずもない...つまり、家茂に嫁いだ和宮は、和宮本人ではなく、替え玉だったのではないか? と。そのほかにも、和宮の筆跡が変化していることや、のちに発掘された遺骨からは足に異常は見られなかったこと、棺から左手の骨が発見されなかったことなど、有吉さんは替え玉説の根拠を上げています。



 もちろん本書の和宮替え玉説は、有吉さんの完全な創作。和宮の波乱万丈な生涯を知る一助として、幕末最大のミステリーを楽しんでみてはいかがでしょうか?



【関連リンク】

京都国立博物館 公式

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