■統制官庁から育成官庁へ

 戦後、1951年のサンフランシスコ平和条約の締結から60年安保までの間、日本で最も権限を持った官庁は通商産業省だっただろう。

 何しろ、ほとんどの物資を統制し、配給する権限を一手に握っていたのだ。当時の通産省には何万人もの物調官(物資調整官)がおり、物資別地域別に生産、流通、配給を管理していた。

 各人が、衣料品の購入には衣料切符が必要だったし、会社が石炭や鋼材を購入するには割り当てを受ける必要があった。企業の盛衰も原材料の割り当て次第、新聞各社の発行部数さえ用紙の配給量で左右された。

 ところが、1950年代末には物資が出回るようになり、配給でなくても大抵の物が調達できるようになった。物調官は民間企業などに就職し、通産省の人数が急減する。私が就職した1960年は、通産省が物資配給の権限をおおむね失った時期である。

■通産省に残った巨大権限

 それでも通産省には巨大な権限があった。第一は輸入外貨の割り当て権。「外貨準備の乏しい中、外貨を有効適切に使用し国民経済に必要な物資だけを輸入するため」という理由だ。外国旅行も制限されていたし、外国映画やテレビ番組の輸入も割当制だった。

 第二は設備投資の認可制。過当競争を防ぎ大量生産を実現するためという理由で、生産施設の建設には通産省の認可が必要だった。製鉄会社も、製紙会社も、肥料会社も、生産設備の増設許可を求めて通産省に日参していた。オートバイ・メーカーの本田技研が四輪車の生産に乗り出そうとするのを、通産省が反対、本田宗一郎氏が口惜しがったのは世に知られた話である。

 第三は外国技術の導入の許可権だ。合成繊維から電子機器まで日本企業が導入したい技術は様々あったが、通産省は過当競争防止や外貨事情を理由に許認可制を敷いていた。

■平家・海軍・国際派

 こうした権限を駆使して企業を支配、日本経済の構造を規格大量生産体制に導き、重化学工業を育てようという人々がいた。この人々のことを「重工業派」といい、その中心には佐橋滋氏がいた。

 この人は城山三郎氏の小説「官僚たちの夏」の主人公「風越」のモデルとされている。私が入省した当時は重工業局次長だったが、間もなく重工業局長に就任、やがて事務次官にもなる。

 佐橋氏と同じ発想と行動様式を持った人々は「重工業派」を構成していた。マスコミはこれを「佐橋軍団」と呼んだものだ。

 これに対して、若手の中には統制規制による重工業育成よりも自由競争による企業の盛衰に委ねることこそ経済発展の道だ、という考えも広まっていた。佐橋氏(昭和12年入省)よりも6年後に入省した山下英明氏やその次の年に入った小松勇五郎氏らが代表格である。マスコミは彼らのこと「国際派」と名付けた。通産省の中では1960年代前半には少数派だった。

 そんな官僚内部の対立を新聞記者や官庁評論家ははやし立てるようにいったものだ。
「平家・海軍・国際派」。日本の歴史では対外交流を重視する勢力は常に少数派だ、という意味である。

 通産省内部に関する限り、やがてこの勢力関係は逆転、「国際派」といわれた山下氏や小松氏が事務次官に就くことになる。

 1973年、日本万国博覧会が閉会、石油ショックがはじまる頃である。

(週刊朝日2014年10月31日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載14に連動)