アルバム『エリック・クラプトン』の録音が終了したころから、ディレイニー&ボニー&フレンズは自然崩壊の方向に進んでいった。クラプトンの心をとらえたオーガニックな音とは裏腹に、ディレイニーには専政君主的なところがあったらしく、優秀なメンバーがつぎつぎとに離れていったのだ。カール・レイドルとジム・ゴードン、ボビー・キーズ、ジム・プライス、リタ・クーリッジは、リオン・ラッセルに誘われてジョー・コッカーの『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』ツアーに参加。キーボード/ヴォーカルのボビー・ホイットロックは片道航空券だけを買ってロンドンに向かい(スティーヴ・クロッパーの勧めもあったとか)、3歳上のギタリストが暮らす館に転がり込む。
こういった動きがデレク&ザ・ドミノスの結成へとつながっていくわけだが、その間にクラプトンは、興味深いレコーディングを残していた。ブルース界の文字どおりの巨人、ハウリン・ウルフをロンドンのオリンピック・スタジオに迎えて、《シッティン・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド》、《ワング・ダング・ドゥードル》、《ハイウェイ49》などの名曲を新たに録音した『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』だ。
発案者はチェス・レコードのスタッフ・プロデューサーだったノーマン・デイロン。69年発表の『ファザーズ・アンド・サンズ』でマディ・ウォーターズとポール・バターフィールド、マイケル・ブルームフィールドらを共演させていた彼は、「同じコンセプトでウルフも」と考えたようだ。クリーム版《シッティン・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド》でのギター・プレイからも強い刺激を受けていたという。
クラプトンは、チャーリー・ワッツ、ビル・ワイマン、イアン・スチュワートに声をかけ、還暦目前のウルフは片腕的存在のヒューバート・サムリン(オリジナル版の大半でギターを弾いた彼の参加はクラプトンが強く望んだもの)、19歳のハープ奏者ジェフリー・カープとイギリスの土を踏む。録音は1970年5月初旬の計4日。初日はチャーリー/ビルの都合がつかず、《アイ・エイント・スーパースティシャス》にはリンゴ・スターとクラウス・ヴアマンが起用されるというハプニングもあったが、デイロンの選曲とコンセプトに従ってレコーディングは順調に進んでいく。その後、スティーヴ・ウィンウッドのキーボード類とホーン・セクションなどのオーヴァーダビングをへて、『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』は完成した(発売は翌71年夏)。
25歳になったばかりのクラプトンは、全編で、オリジナルの雰囲気を尊重しながらも、彼らしい繊細なプレイを聞かせている。気負うことなく、サムリンとのギター・コンビネーションを含めてセッションを楽しんだようだ。
ハイライトはストーンズ版でも知られる《ザ・レッド・ルースター》。演奏がスタートしたものの、ノリがあわない。いったん止めさせたウルフが、あの低く太い声で細かく指示を出し、クラプトンが「それなら、一緒にギターも弾いてほしいと」と懇願するという微笑ましいシーンも収められている。[次回10/15(水)更新予定]