『Underground 』Thelonious Monk
『Underground 』Thelonious Monk

 ぼくもまた例外ではなく、ジャズを聴くまでは「難解・深刻・大人(高齢者)」といった、どちらかといえばマイナスのイメージを抱いていた。60年代後期のことだ。しかし実際に聴いたジャズの大半は「えっ? これがジャズなの?」「これをジャズと呼んでいいの?」と、思わず心配になってしまうほど明るく、あっけらかんとしていた。もちろんイメージどおりの難解で深刻なものもあったが、その一方には、60年代後期当時の進化しつづけるロックよりもはるかにシンプルで聴きやすく理解しやすいものが山のようにあった。

 マイルス・デイヴィスの『マイルス・イン・ザ・スカイ』、ドン・エリスの『オータム』、チャールス・ロイドの『フォレスト・フラワー』、ジョン・ハンディの『アット・モンタレー』、ゲイリー・バートンの『ロフティ・フェイク・アナグラム』といったアルバムは、初心者以前の入門者が勝手に抱いていたジャズに対するイメージを根底から覆し、ただただ刺激的な音楽として眼前に現れた。それはなにも彼らの音楽がジャズとロックを融合させるような方向に向かっていたという理由だけでなく、ジャズでもロックでもポップスでもない「新しいかっこよさ」を感じさせるものだったからだ。そしてそうしたなかにセロニアス・モンクの『アンダーグラウンド』があった。

 ぼくが最初にヤラレたのは、ジャケットだった。よく「ジャケ買い」という言葉を耳にするが、いまではエロ及びイロモノ収集を意味する傾向にあるその言葉は、当時は文字どおり「かっこいい」ことを指していた。「ジャケ買い」とは「かっこいいジャケット」にだけ適用される言葉だった。モンクの『アンダーグラウンド』は「ジャケ買い」の筆頭に挙げられ、(少なくともぼくの周囲では)ジャズに興味のないロック・ファンまでが買いに走った。これはいまでも通用するテーマだと思うが、イラストなのか写真なのかと話題になったこともよく覚えている(数年後に発売されたボブ・ディランの『地下室』のジャケットは、ブルーノート・レコードのデザインで知られるリード・マイルスが撮影したものだが、絶対に『アンダーグラウンド』が下敷きとしてあったと思う)。

 ジャケット以上に驚いたのが、その音楽のかっこよさ、わかりやすさだった。なんと明快で起承転結のはっきりした音楽なのだろう。もしもこれが「ジャズ」という音楽の基準とするなら、ジャズってまったく難解でも深刻でもなく楽しい音楽じゃないか。単純なぼくはそう思ったが、それはモンクの音楽、とくに『アンダーグラウンド』にあてはまることであり、ジャズ総体に関する印象や理解ではなかった。でも、そんなことはどっちでもいいではないか。モンクの音楽は、そう語りかけていた。

 「深読み」と同じく「深聴き」をしようと思えば、いくらでもできる。モンクの音楽は、シンプルに見えて、じつは深い。しかしぼくとしては、その深みの手前に無数に用意されている「楽しそうな扉」を次々に開けたくなってしまう。そしてそれが「セロニアス・モンクを聴く」ということだと思っている。難解で深刻な部屋にモンクを閉じ込めてはいけない。そう、アルバム・タイトルの「アンダーグラウンド」とは皮肉の効いた反語であり、だからこそこのジャケットは風刺的な意味合いで成功している。
 演奏はおなじみのカルテットによるものだが、テナー・サックスのチャーリー・ラウズは父親の葬儀と重なったために全曲への参加は叶わなかった。一方《イン・ウォークド・バド》にはジョン・ヘンドリックス(ヴォーカル)が加わり、いつものモンク盤と異なる味をつけ加えている。ラウズとヘンドリックスの参加・不参加が生み出す凹凸感もまた、ぼくにはきわめてモンク的な世界を描き出す重要な要素になっているように思える。あのころも21世紀の現在も、モンクの音楽が運んでくる「デコボコの快感」はまったく変わっていない。(本稿は3月に発売される『アンダーグラウンド』のライナーノーツを加筆・改訂したものです)。[次回3月10日更新予定]