AERA 2023年3月6日号より
AERA 2023年3月6日号より

 練習拠点と大学が近いことから、母校で働くのが至便ではと誘われ、大学職員になった。給与のほか、遠征費も出してもらい、競技を続けることへの不安が消えた。06年秋、世界ランキング1位になった。

「ただ、世界1位になったといっても、賞金も高くない。選手仲間からなんのために続けているの?と聞かれ、スパッと返事ができない自分がいました。自己満足のためとしか言えない寂しさがありました。これでは夢がない。後に続こうと思う選手が出てこないと感じました」

 07年、スポーツマネジメント会社であるIMGを訪ねた。

「マネジメントをしてほしいと汗だくでプレゼンしたら、北京で金メダルを取ってからもう一回話そう、となったんです」

■プロに行くぞと思った

 北京大会では見事、シングルスで初の金メダルに輝いた。

「決勝で勝った瞬間、来たぞ、プロに行くぞと思っていました。金メダルが取れていなかったら人生は変わっていたでしょうね」

 09年に当時の車いすテニス選手としては異例の「プロ宣言」。シングルス2連覇を果たした12年ロンドン大会はプロ選手としての強さを証明した。

 しかし、続く16年リオデジャネイロ大会は試練だった。右ひじ手術からの回復が予想以上に時間がかかった。無理を承知で挑み、準々決勝で敗れた。金メダルは当時24歳のゴードン・リード(英国)が獲得した。

「あのときは決勝戦を見ながら、若いゴードンがすごく輝いて見えたし、本当に僕の実力は超えたなと感じました」

 それでも、現役に執着した。

「それは東京パラリンピックがあったからです。13年9月に東京開催が決まったときに、そこまでは続けると宣言しました。自国開催の大会が4年後に控えていなかったら、心が折れていたんじゃないかな。おそらく」

 4大大会の復活優勝は18年全豪だった。

「あの全豪の優勝は、復活は無理かもしれないと覚悟した苦境を乗り越えた点で、4大大会の中でも特に印象深い。逆に18年よりも前はあまり印象に残っていないんです。それだけ18年全豪からの5年に僕のテニス人生が凝縮されている気がします」

(朝日新聞編集委員・稲垣康介)

AERA 2023年3月6日号より抜粋

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