その間、家康の出陣を待ちわびた福島正則らは岐阜城を八月二十三日に攻め落とし、この報告を受けた家康も出陣を決定。息子の秀忠には徳川主力部隊を与えて中山道を進ませ、「真田表仕置の為」(秀忠書状)と信濃の三成方で会津への連絡路を扼する上田城の真田昌幸退治を作戦目標とさせて三成勢力の各個撃破を図った。
九月一日、家康は江戸を進発。東海道を進んで美濃へ赴く。十四日に美濃赤坂に着陣した家康は、三成らの拠る大垣城を無視して大坂に進むとの偽情報を三成らに流したともいい、また大垣城を水攻めにしようという動きもあった。
これを察知した三成は城外決戦の道を選択、その夜関ヶ原に向けて城を出る。一説には、かねて彼が家康への内通を疑っていた小早川秀秋が関ヶ原をにらむ松尾山の陣城を乗っ取ったのを知って処断のため移動したともいわれているが、いずれにしてもその暇はすでになかった。翌十五日早朝にこれを知った家康も、関ヶ原に移動して来たからだ。
九月十五日午前10時頃、東軍(家康勢)7万4000、西軍(三成勢)8万2000が戦闘を開始する。この兵数に第二次上田城攻め、大津城攻め、長谷堂の戦い、石垣原の戦いなど、地方での戦いを含めると26万以上の兵力による戦いが繰り広げられたことになり、小田原城攻め・大坂の陣に次ぐ高ポイントとなる。
戦闘の陣形としては笹尾山・天満山一帯の三成・宇喜多秀家・小西行長ら、南宮山の毛利秀元・長宗我部盛親ほかの部隊、藤古川沿いの隘路を押さえる大谷吉継ほかの部隊と、縦隊となって進む東軍を正面と側面から攻撃でき、地形的にも高所を占める西軍の有利は動かない筈だった。実際、開戦後しばらくは宇喜多隊が福島隊を圧倒するなど西軍優勢で進んだが、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱が東軍に寝返り大谷隊を潰滅させたことにくわえ、黒田長政を通じ家康に通じていた吉川広家が毛利隊の戦闘参加を押し止めたことで、3万ほどの兵で3倍以上の敵と戦わなければならなくなった西軍は兵力の限界を迎え、正午すぎに崩れる。島津義弘隊が敵中突破の「島津の退き口」を行ったのはこのときの話である。
東軍主力は福島正則ら豊臣恩顧の大名たちだったが、それを巧みに制御し破綻させなかった家康の采配力にも、高いポイントを配した。豊臣関白政権時代から徳川将軍政権時代へと歴史を転換した影響力の面でも、ポイントを多く付さなければならない。
■関ヶ原の戦い(合計点:85点)
【動員兵力】18 【采配力】17 【武器】17 【革新性】14 【歴史への影響力】19
※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から