桶狭間の戦い、川中島の戦い、備中高松城の戦い――歴史に名を刻んだ戦国の合戦は枚挙にいとまがない。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では「戦国の大合戦ランキング」を特集。戦国の期間に関しては異説も多いが、この大合戦ランキングでは、応仁の乱が起こった応仁元年(1467)から「元和偃武」を迎えることとなる慶長二十年(1615)の大坂夏の陣までの約150年間として、その間に起こった大小数多くの合戦のなかから厳選した戦いを、「兵力」「采配力」「武力」「革新性」「歴史への影響力」の5つの基準で採点しランキング化。その上位、ベスト10のなかから歴史を彩った合戦をシリーズで解説する。今回は、2位となった「関ヶ原の戦い」を紹介しよう。
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慶長三年(1598)に豊臣秀吉が世を去ると、後には朝鮮出陣で何の恩賞も得られず、膨大な負債に困り果て処理に窮する諸大名が残された。彼らの中には豊臣家五大老筆頭の徳川家康を頼ろうとする者も多く、豊臣中央集権体制の秩序維持を主張する五奉行・石田三成との軋轢が深まる。この対立は、慶長五年(1600)に至ってついに爆発。家康が同僚の大老、会あい津づ上杉景勝を「豊臣家への謀反準備」の罪で征伐するため六月十六日に大坂を発すると、三成は打倒・徳川を叫んで挙兵したのだ。
三成は毛利輝元を総大将に担ぎ、八月一日に徳川方の伏見城を攻め落とす。一方三成の挙兵を知った家康は従軍している諸大名が集まった「小山会議」で事の次第を告げ、「皆が大坂に置いていた妻子は三成らに人質にされているから、三成に味方してもよい。自分が勝っても、罪に問うことはない」と言ったという。
一方で家康は豊臣恩顧の大名筆頭・福島正則に根回しをしており、正則は先頭きって家康への加担を表明し、衆議は上杉征伐中止と三成との決戦で一致した。
こうして福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興ら豊臣諸侯は反転して尾張に赴いた。家康は江戸に残ってひたすら諸方に書状を書き送り、恩賞を餌に味方に勧誘し続ける。この調略の手は毛利輝元重臣の吉川広家や小早川秀秋などにも及び、一方で伊達政宗や最上義光に対しては上杉氏の牽制を指示するなど、全国規模で展開された。