――アフリカにはどれくらい行っていたんですか。
2年半です。まず、博士課程2年のときに文部省(当時)の科学研究費で半年間、タンザニアに行きました。
私の憧れはドリトル先生で、前人未踏の奥地に探検に行きたいとずっと思っていました。前人未踏とはいかなかったけれど、それに近いところに行けて嬉しかった。もともと、その場所を国立公園にして保全するという計画があり、日本がそれを援助するということで、国際協力事業団(JICA、現・国際協力機構)が調査のために専門家を2年間派遣していました。それで、改めて私と夫(長谷川寿一さん。進化心理学者。東大教養学部助手などを経て東大大学院総合文化研究科教授、現在は名誉教授)は大学を休学して、そのJICAの専門家としてタンザニアの奥地に行きました。
電気なし、ガスなし、水道なしで、村人を30人くらい雇わないといけない。時計もカレンダーもない人たちに毎日9時に来なさいというのは大変で、毎晩、トシ君と「どうしてあの人たちは働かないんだろう」と愚痴を言い合ってました。でも、いま振り返るとあの体験が良かった。文化が違えば人々の考えがどれほど違うのか痛感したし、逆に文化がどれほど違っても人間はみな同じだと思ったことも多々あった。人類進化の原点に近い伝統社会の生活を教えてもらって、ものすごく視野が広がりました。
――ご夫婦で行けたのが良かったですね。そもそもドリトル先生に憧れた理由や、生物を丸ごと研究したいと思ったきっかけは何だったのでしょう。
私の原点は、紀伊田辺の海なんです。2歳から5歳ぐらいまで母親が結核でずっと入院してしまったので、和歌山県田辺市の海岸近くにある父方の祖父母の家に預けられた。あのころの紀伊田辺の海はテトラポッドもなくきれいなところで、磯があって砂浜があって、いろんな海の動物がいて。
私は生き物の多様性と美しさ、エレガンスを目に焼き付けて育ちました。それと同時に、一緒に住んでいた父親の姉、私にとってはおばさんが中学校の先生をしていて、彼女が何か小さな図鑑をくれたの。その図鑑を見て自分でとってきたものと比べるのがとっても楽しかった。
――幼稚園児にして生物学者の片鱗を見せていたわけですね。
そういう経験がないと、生物学を志さない。多分それが私たちの世代なんですよ。だけど今の40代より下になると、子供時代にそういう自然に接していない。うちの大学院に来る学生を見てもそう。私みたいに生き物への強烈な興味を原点に持つ人はこれから時代的に出ないかもしれません。
――小学校は東京で。
母が治ったんです。それで東京に戻ってきて、千駄谷小学校に入りました。そのころは東京の千駄ケ谷でも路地みたいなところがいっぱいあって、雑草もいっぱい生えていて、野良犬が死んでいたこともあった。2年生のときに両親が郊外の小金井に家を建て、東京学芸大学付属小金井小学校に編入しました。そのときの担任は大野先生という女の理科の先生で、本当にいろんな動物や植物について手に取って教えてくれた。大野先生のおかげでますます生物が好きになりました。