復元した駿府城東御門(写真/千田嘉博)
復元した駿府城東御門(写真/千田嘉博)

 1549(天文18)年に織田信秀は子の織田信長に家督を譲った。信秀が病によって身体の自由を失ったため、16歳の少年へ緊急の代替わりを行った。三河国を攻めて領土を拡張してきた信秀だったが、駿河・遠江国を治めた太守・今川義元が三河の松平氏を軍事支援して反撃を開始していた。病身の信秀は指揮を執れず、先述したようにこの年には西三河の要衝である安祥城の今川軍による奪還を許した。

 安祥城の攻防戦後の捕虜交換で、家康は今川方に返された。しかし家康は岡崎城に戻れたのではなく、そのまま義元本拠の静岡市の今川館に連れられ、今度は今川の人質になった。ただし人質といっても家康は、義元に従う松平氏の当主として今川館の近くに屋敷を与えられ、西三河の武士たちは駿府の家康への臣従を求められた。

 幼い家康が、父広忠でさえ完全にコントロールできなかった三河武士たちを従え、大名として生き残るには、義元の後ろ盾が不可欠だった。また義元は西三河の武士たちを対織田戦の先兵として使うために家康が必要だった。

 今川館は現在の駿府城と重なっていると考えられている。今川館は一辺100メートル級の大型館城で、その周囲にはやはり堀や溝をめぐらした武士の館が群在した。そのひとつが家康の館だったと想定される。家康は義元のもとで最高の教育を受け、正妻築山殿(瀬名姫)を迎えた。今川館時代の家康はそれなりに幸せだった。しかし三河武士たちとは疎遠で、強い信頼関係があったとはいえなかった。

【駿府城】信長・秀吉の先を行く連結天守

 1582(天正10)年に織田信長・徳川家康は武田勝頼を攻めて滅ぼした。これによって家康は、駿河など旧武田領を手中に収めた。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦い後も羽柴秀吉との戦闘態勢にあった家康は、翌1585(天正13)年8月から駿府城(静岡市)を居城にする工事に着手した(『家忠日記』)。

 拡大した領国を統治するのに最適な位置に居城を移すとともに、秀吉との戦いに備えるためだった。同年11月には家康が現地指揮をして岡崎城(愛知県岡崎市)の改修工事を実施したように、秀吉の進攻に備えた防衛網の構築は、家康にとって最重要課題であった。

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