駿府城で発掘された家康の天正期大天守台石垣(写真/千田嘉博)
駿府城で発掘された家康の天正期大天守台石垣(写真/千田嘉博)

 1586(天正14)年9月11日、家康は駿府城に入った。このとき駿府城は未完成で御殿周辺ができただけだった。家康が駿府入城を急いだのがわかる。こうしたなかで翌10月に家康と秀吉との講和が成立した。秀吉の母、大政所を人質として岡崎城に迎えた上で、家康が豊臣大坂城に出向いて臣従の礼をとった。

 秀吉の軍事進攻という危機を回避した家康だったが、駿府城の工事は継続した。1587(天正15)年2月には二の丸堀の工事をしつつ、石垣の石材を運び込み、翌3月には石垣を積みはじめた(『家忠日記』)。そして同年12月までに本丸の堀の工事も完了。1588年5月には大天守台石垣の、1589(天正17)年2月には小天守台石垣の工事をはじめて4月に完成した。石垣完成後は即座に大小天守の建築工事を進めたので、1589年末頃には石垣をめぐらし、大小天守がそびえた家康の駿府城が完成したと思われる。 

 信長の安土城も秀吉の大坂城も天主(天守)は単立だったので、大小天守を連結した家康の駿府城天守はまさに先進の設計だった。さらに駿府城天守は信長の安土城と同じように凹面に金箔を施した瓦を用いて、凸部に金箔を貼った秀吉流とは異なる金箔瓦で飾った。秀吉への対抗心が光っていた。

 現在、静岡市が駿府城の発掘をつづけている。そして発掘で見つけた天正期の天守台を、秀吉が建てさせたものと長く説明してきた。しかし同時代史料と発掘成果にもとづけば、静岡市の解釈が成り立つ余地はない。市役所の発表を無批判に報道してきた新聞社も反省してほしい。天正期の石垣も天守も「家康の城」である。

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